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プログラムノート(第355回定期演奏会)
2022-04-26
カテゴリ:読み物
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奥田 佳道(音楽評論家)
ブラームス (1833~1897):ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 作品15
作曲 1854年(2台ピアノ・ソナタとして)、1855年、1856年~1857年、1859年
初演 1859年1月22日ドイツ、ハノーファー
   作曲者自身のピアノ、ヨーゼフ・ヨアヒム指揮ハノーファー宮廷楽団

冒頭から劇的だ。基調のニ短調以外のハーモニーも舞う。管弦楽の編成は19世紀ロマン派協奏曲の標準的フォーメーションだが、重層的な調べが続く。
これがピアノ協奏曲の前奏だろうか。ほどなく独奏ピアノが、みずみずしい楽の音を紡ぎ始める。それも前奏とは「遠い調」で。若き知将ブラームス、凝っている。と同時にひたむきだ。
全3楽章、ピアノとオーケストラはまさにワンミュージックで、両者は指揮者を仲立ちに「会話」も交わせば、激情も露に音楽を進めてゆく。内なる尽きせぬ音楽への想いが、ついに溢れ出る趣。
この気宇壮大なコンチェルトを菊池洋子さんで味わう。彼女はウィーン古典派、ドイツ・ロマン派の調べと相愛である。

ロマン派の時代、協奏曲と言えば、華やかな技巧と音楽性を誇ったソリストが主役だった。しかし鍵盤の真のヴィルトゥオーゾで、ピアノ・ソナタであれ室内楽であれ、構えの大きな音楽を愛でたブラームスは、そんな時代の趣味や潮流に興味はないとばかりに、交響的な協奏曲を書く。
いや交響的だけでは言葉が足りない。構築的なピアノ・ソナタ、ピアノを交えた室内楽をベースに、熱きオーケストレーション(管弦楽化)を施し、大胆なピアノ協奏曲を創ったのである。
ゆえに情熱がほとばしる場面も静謐な場面も際立つ。響きの融和や夢幻の境地を求めた場面では、p(ピアノ)、pp(ピアニッシモ)の指示も細かい。祈りの情趣も私たちを魅了してやまない。

思わずほほ緩むブラームスの調べ。しかし初演当時、この協奏曲は人々を驚かせ、ときに呆れさせた。
創作の経緯は、自己批判と推敲(すいこう)の人ブラームスらしく、やや入り組んでいる。
1854年春、まず2台ピアノのためのソナタとして構想された。前年の秋、20歳のブラームスはロベルト・シューマン(1810~1856)&クララ・シューマン(1819~1896)夫妻、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム(1831~1907)と交歓。気鋭のピアニストから作曲家への道を歩み始めていた。
しかし2台ピアノのためのソナタを、14歳年上の名ピアニスト、クララと何度も試奏するうちに、器楽ソナタの枠に収まらない音楽と感じ始める。
翌年、ブラームスは4楽章から成る初の交響曲を夢見、オーケストレーションに取り掛かったが、それも断念。腕に覚えのあるピアニストとはいえ、まだオーケストラ曲の経験がなかった21歳の彼に、交響曲の創作はさすがに荷が重すぎた。
幻の交響曲から今度はピアノ協奏曲へ。前述のクララ・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒムの助言を踏まえつつ、コンチェルトが体を成してゆく。しかし事は簡単には運ばない。第2楽章は当初スケルツォ風の音楽だったが、最終的に慈愛に満ちたアダージョに生まれ変わった。第3楽章もクララとヨアヒムの提案に基づき、フーガを交えた今のロンド・フィナーレとなった。

第1楽章:マエストーソ ニ短調 4分の6拍子
アンドラーシュ・シフによれば、自筆譜には出版譜に反映されなかったメトロノーム記号、付点二分音符=58が記されているという。ブラームスは親指、薬指、小指を駆使した烈しいトリルを愛でた。
第2楽章:アダージョ ニ長調 4分の6拍子
ミサ通常文ベネディクトゥスの一節「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」が掲げられている。20歳台前半のブラームスはクララに「あなたの肖像画を書きます。それはアダージョになることでしょう」と伝えていた。
第3楽章:ロンド、アレグロ・ノン・トロッポ ニ短調~ニ長調 4分の2拍子
フーガを愛したブラームス。書き直しを示唆したクララ、ヨアヒムの脳裏にもベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番ハ短調の終楽章が響いていた、か。
ブラームス(1833~1897) 交響曲第4番 ホ短調 作品98
作曲 1884年(第1、第2楽章)、1885年(第3、第4楽章)オーストリア、ミュルツツーシュラーク
初演 1885年10月25日ドイツ中部マイニンゲン(現テューリンゲン州)、
   作曲者自身指揮によるマイニンゲン宮廷管弦楽団シーズン第3回定期公演

哀愁と情熱に彩られた名交響曲を聴く。19世紀中葉以降の作曲家ブラームスから見ても「古き良き時代」の旋法、それにバロック音楽に通じる筆致も添えられた。

20歳台の終わりから、ハプスブルクの帝都にして楽都でもあったウィーンを拠点としたヨハネス・ブラームス(ドイツ北部ハンブルク出身)は、お気に入りの避暑地で大曲のスケッチを手がけ、都会やウィーンに戻ってから清書することが多かった。ここでの清書にはオーケストレーションも含まれる。

最後の交響曲となった第4番は、1884年と85年の夏を過ごしたミュルツツーシュラーク(ウィーンから南西へ85キロの古都、ゼメリング山岳鉄道の起点)で作曲が開始され、ウィーンでの2台ピアノ版による試演を経て、1885年10月に作曲者自身の指揮するドイツのマイニンゲン宮廷管弦楽団の1885/86年シーズン第3回定期公演で初演された。
演劇に尽くし器楽を愛したザクセン=マイニンゲン公ゲオルク2世(1826~1914)も臨席したマイニンゲンでの日曜夕方の伝統的コンサート。ウィーンでのピアノ試演会では否定的な意見も出されたが、マイニンゲンでの初演では第3楽章が2回、第1楽章が1回アンコールされるほどの成功を収めた。
ちなみにその定期公演には、6年前の1879年にライプツィヒ・ゲヴァントハウスでヨーゼフ・ヨアヒム(1831~1907)によって初演されたブラームスのヴァイオリン協奏曲もプログラムされていた。
マイニンゲンで同協奏曲を弾いたのは、ライプツィヒ音楽院の教授でもあったロシアの名手アドルフ・ブロツキー(1851~1929)。1881年にチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をハンス・リヒター指揮のウィーン・フィル定期で世界初演した偉人である。ブラームスは、ハンガリー系のヨアヒムともウィーンで学んだロシア人ブロツキーとも親しかったのだ。

交響曲に話を戻さねば。
ブラームス芸術の美しき夕映えとも形容される交響曲第4番だが、創作時、作曲者は51、2歳。結果として63歳で亡くなるものの、決して老境、あるいは枯淡の域にあったわけではない。

第2楽章にフリギア旋法と呼ばれる古い教会旋法が、終楽章にバロック音楽特有の変奏シャコンヌの筆致が織り込まれている。
それゆえ、ブラームスの音楽を好意的に聴く人にとっても、初演当時、この交響曲はやや厳格に映ったようである。ウィーンでは「ホ短調の交響曲とは珍しい」とまで書かれた。1870年代前半にウィーン楽友協会の監督を務め、古典音楽や声楽曲を指揮したブラームスは、ハイドンの交響曲第44番ホ短調を好み、楽友協会のアルヒーフ(古文書資料館)で同曲のスコアを研究したこともあった。

前述のようにマイニンゲン初演は好評を博す。その後ウィーン、ベルリン、ライプツィヒでも披露された。実のところ10年ほど微妙な評価が続いたが、1897年3月のハンス・リヒター指揮ウィーン・フィル定期で歴史が動く。
「楽章ごとに歓呼と大拍手が貴賓ロジェ(桟敷席)の作曲者に向けられた」(ウィーンの論客エドゥアルト・ハンスリックの記述から)。
ブラームスはその翌月、64年の生涯を閉じる。
第1楽章:アレグロ・ノン・トロッポ ホ短調 2分の2拍子
冒頭のうるわしい楽想は、ブラームスお気に入りの3度音程の下降、6度音程の上昇から成る。しかも彼が終生好んだアウフタクト(弱起、裏拍)による。ティンパニの決然たる4打音で締めくくられるまで、3度音程の進行を軸に、味わい深い音楽が届けられる。
第2楽章:アンダンテ・モデラート ホ長調 8分の6拍子
聴き手を異次元へと誘う古い教会旋法。ホ長調の進行を告げるクラリネットの用法もブラームスならでは。穏やかなバロック舞曲の趣とロマンの薫りをあわせ持つ楽章。絶品だ。
第3楽章:アレグロ・ジョコーソ(楽しげに) ハ長調 4分の2拍子
ハ長調で書かれた「スケルツォ」。しかも慣例の3拍子、3部形式ではなく、4分の2拍子、かっちりとしたソナタ形式で書かれた。才気がほとばしる音楽でピッコロ、トライアングルも活躍。交響曲全体の内的緊張感を解放する役割も果たす。
第4楽章:アレグロ・エネルジーコ・エ・パッショナート ホ短調 4分の3拍子
バス声部の一定の反復(バッソ・オスティナート)を伴う、3拍子系のバロック舞曲シャコンヌのスタイルによる変奏曲。この楽章からトロンボーンが入る。
管楽器で示される冒頭8小節の主題は、バッハ(1685~1750)のカンタータ第150番「主よ、われ汝を望む」の終曲シャコンヌに基づく。冒頭の呈示を(低音ではなく)上声部が担うのも斬新だ。
ブラームスは、交響曲第1番(1876年)を書く以前から19世紀の歴史的バッハ学者フィリップ・シュピッタ(1841~1894)と書簡を交わしていた。その縁を通じバッハのカンタータの写しを手にしていたのである。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」に早くから魅了されていたシュピッタは、バッハの「いくつかの楽器のための6曲の協奏曲」を「ブランデンブルク協奏曲」と名づけた偉人でもある。
格調高い第4楽章だが、ブラームスがここぞという場面で用いたロマ=ジプシー舞曲風の調べも織り込まれている。フルートのソロは第4楽章の華。決然としたエンディングまで管弦の聴きどころは尽きない。飯守泰次郎と仙台フィルが繰り広げてきたブラームスシリーズのフィナーレ!(飯守泰次郎フィナーレ第1弾)。彫りの深い音楽にいだかれたいものである。
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