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プログラムノート(第353回定期演奏会)
2022-03-15
カテゴリ:読み物
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奥田 佳道(音楽評論家)
矢代秋雄(1929~1976):ピアノ協奏曲
作  曲 1964年~1967年
放送初演 1967年11月5日、中村紘子のピアノ、若杉弘指揮NHK交響楽団(収録は同年7月10、11日)
初  演 1967年11月29日東京文化会館、
     中村紘子のピアノ、森正指揮NHK交響楽団臨時演奏会<現代日本の作品の夕べ>

冒頭、神秘的な弦楽に導かれ、明晰なピアノが聴こえてくる。摩訶不思議な浮遊感も漂う。
ほどなく、この調べ(第1主題)を基にした劇的なカデンツァが始まる。即興ではなく楽譜に記されたリスト風のカデンツァだ。
いっぽう、20世紀フランス音楽界の巨人オリヴィエ・メシアン(1908~1992)の「トゥランガリラ交響曲」やピアノ曲に憧れたかのような創りも私たちを喜ばせる。
テンポがアンダンテ、テンポ・ルバートに変わり、ピアノとフルートの対話(第2主題)が始まる──。第1楽章は、このふたつの主題を軸に展開する。推敲を経たであろうソナタ形式の音楽。

パリ音楽院でエクリチュール(作曲をする上で必要な書法上の技術)を究めた矢代秋雄の音楽は、当然ながら完成度が高い。しかし40代半ばで急逝したこともあり、作品数は多くない。

世代を超えたピアニストに愛されている矢代秋雄の傑作ピアノ協奏曲とは、ほほ緩む選曲だ。しかも弾くのは、日欧を行き来しながら創造の喜びを分かち合う河村尚子である。彼女は2019年11月、山田和樹指揮N響定期でもこのコンチェルトに渾身の演奏を披露した。

1929年(昭和4年)生れの矢代秋雄は東京音楽学校(東京芸術大学)の作曲科を経て、1951年から56年までパリ国立高等音楽院に留学。楽典の名伯楽トニー・オーバン、アンリ・シャラン、ナディア・ブーランジェ、ノエル・ギャロンに師事。メシアンのクラスも受講した。また、東京音楽学校入学前および在学中には、近代日本の作曲界の礎を築いた論客、諸井三郎、橋本國彦、池内友次郎、それに伊福部昭から教えを受けた。

矢代が留学した1950年代前半のパリ音楽院では、ピアノやオルガンの名手でもあったフランク(1822~1890)、サン゠サーンス(1835~1921)のソナタ形式や変奏、循環形式などがひとつの模範とされていた。矢代もフランク、ルーセル(1869~1937)、フローラン・シュミット(1870~1958)の音楽から影響を受けたと語っている。
帰国後、パリで書いた弦楽四重奏曲を発表。1958年9月に渡邉曉雄指揮日本フィル定期で初演された「交響曲」(日本フィルが日本の作曲家に新作を委嘱した日本フィルシリーズの第1作)、それにN響の委嘱作で1961年3月に堤剛の独奏、外山雄三指揮N響定期で演奏されたチェロ協奏曲などで脚光を浴びる。

名作の誉れ高いピアノ協奏曲は芸術祭参加作品として書かれ(矢代に委嘱したのはNHK)、昭和42年(1967年)度の芸術祭奨励賞および第16回(1968年)尾高賞を受賞した。その頃から母校東京芸術大学で教鞭をとり、野田暉行、池辺晋一郎、西村朗らを育てた。パリでデュリュフレ(1902~1986)に学んだ、もう一人のエクチュールの匠・尾高惇忠(1944~2021)も矢代門下である。

ピアノ協奏曲の第1楽章については先に記した。
第2楽章では、鍵盤中央のC音(ド)の反復が聴き手を捉えて離さない。リズム・パターンが繰り返されるオスティナートで、壮絶な響き、魔境を感じさせるパッセージも添えられた。まさにミステリオーソ。矢代は「幼い頃の夢の記憶」と述べている。
第3楽章は、ピアノの鮮やか、華やかなテクニックが全開となるトッカータ。劇的な管弦に導かれ、ピアノがカデンツァを奏でる。音の粒子が舞い上がり疾走するかのようなロンドで、第1楽章冒頭の動機も顔を出す。矢代秋雄芸術の昇華とも言うべき巧緻なフィナーレ。
第1楽章 アレグロ・アニマート
第2楽章 アダージョ・ミステリオーソ
第3楽章 アレグロ~アンダンテ~ヴィヴァーチェ、モルト・カプリッチョーソ
ベルリオーズ(1803~1869):幻想交響曲 作品14
作曲 1830年 その後1855年まで幾度か改訂
初演 1830年12月5日パリ音楽院ホール、フランソワ・アントワーヌ・アブネック指揮パリ音楽院管弦楽団

妖しくも烈しい調べが舞う。
大胆な管弦楽法を愛でる鬼才ベルリオーズの代表作のみならず、音楽史上に燦然と輝く「幻想交響曲」は1830年に書かれ、同年暮れに座席数約950のパリ音楽院ホールSalle du Conservatoireで初演された。「コンサートホールのストラディヴァリウス」とも評された当時のパリ音楽院ホールに、さてどんな音が鳴り響いたのだろうか。

作曲者27歳の誕生日を目前にした大イヴェントだった。客席にはパリ楽界の名士が勢ぞろい。ベルリオーズが後年記した「回想録」によれば、19歳のフランツ・リスト(1811~1886)も最終リハーサルを聴いたか、客席にいたようである。このときベルリオーズは、ネルヴァルのフランス語訳で親しんでいたゲーテの長篇戯曲「ファウスト」の世界をリストに授けたのだった。
鬼才と鬼才のあいだに友情が芽生えた。リストは1833年に「幻想交響曲」をピアノに編曲。このピアノ版は何とベルリオーズのオリジナルよりも先に広まった。
ベルリオーズは後年、劇的物語「ファウストの劫罰」を作曲しリストに捧げている。その「劫罰」に触発されたリストはフィナーレに神秘の合唱を伴う「ファウスト交響曲」を書く。
ちなみにリストのピアノ協奏曲第1番はドイツ、ワイマールでのベルリオーズ週間で初演された。タクトを執ったのはもちろんベルリオーズである。二人は、時代も次代も切り拓いたベートーヴェンの音楽好きでもあった。

音響面は申すに及ばず、楽器の種類や配置など視覚的にも魅せる「幻想交響曲」の初演が、ベートーヴェンが亡くなってわずか3年後(交響曲第9番初演の6年後)という史実にいつも驚く。
1830年と言えば、栄光の三日間と呼ばれる<フランス7月革命>が起こった激動の年でもある。多くの芸術家の創作魂を鼓舞した<フランス7月革命>。同革命との直接の関係はともかく、ベルリオーズの「幻想交響曲」はそんな時代に創られたのだ。ショパンがパリにやってくる前の年。ブラームスやチャイコフスキーは生まれてもいない。

初演の指揮は、ベルリオーズの盟友フランソワ・アントワーヌ・アブネック(1781~1849)に委ねられた。ヴァイオリニストでもあったアブネックは、ベルリオーズ同様、ベートーヴェン芸術の崇拝者だった。アブネックはパリ音楽院管弦楽団の公演でベートーヴェンの交響曲を度々指揮している。

「幻想交響曲」はパリで公演中だった英シェイクスピア劇団の女優ハリエット・スミスソン(1800~1854)への狂おしい恋心を昇華させながら、あるいは前述の「ファウスト」から霊感を受けて書かれた。アブネック指揮パリ音楽院管弦楽団が奏でたベートーヴェンの交響曲第6番「田園」もベルリオーズの頭をよぎったことだろう。

イデ・フィクスと呼ばれる固定観念主題/固定楽想──「幻想交響曲」では恋人の主題とその変容──による全5楽章の有機的構築が鮮やかで、オーケストレーション(管弦楽法)の面白さは群を抜く。

高鳴る胸の鼓動を表すかのような第1楽章の、ざくざくとした弦楽の響きに第2楽章の舞踏会を映し出すハープの蠱惑的(こわくてき)な音色。ハープは交響曲史上お初だ。ウィーンからパリに嫁いだマリー・アントワネットの時代にハープが流行、その後エラール社が楽器を改良、1825年パリ音楽院にハープ科新設という音楽史も私たちを喜ばせる。
ハープ好きだったベルリオーズは近所のパリ・オペラ座からも楽器を調達。ステージでの配置にも工夫を凝らしたのではないか。トランペット属の金管楽器コルネットは軍楽隊から借りたはずである。

管弦打楽器による遠近法も巧みな第3楽章「野の情景」では、離れた場所で吹く牧童(羊飼い)の笛をイメージしたコーラングレ(オーボエ属のイングリッシュホルン)とオーボエの応答が、まさに「夏の夕方の野辺」を映し出す。この筆致は世紀転換期のマーラー(1860~1911)に影響を与えた。
いっぽうティンパニ2対を4人で演奏する遠雷の場面も、怖いものなしのベルリオーズならではの筆致だ。

第4楽章「断頭台への行進」のハイライトはギロチンへの道のりと人々の歓声の描写だが、それらを導くティンパニとファゴット(バソン)4の響きも客席を捉えて離さない。
第5楽章「ワルプルギスの夜の夢~魔女のロンド」では、高い音域を奏でるEsエスクラリネット(交響曲初登場)が妖怪や魔女の奇怪な踊りを、いかにもそれらしく表現したかと思えば、弔いの鐘とグレゴリオ聖歌「ディエス・イレ 怒りの日」の交歓も大胆。いやが上にも興奮を誘う。

魔境を愛でたベルリオーズは、やはり軍楽隊の管楽器で半音階を得意としたオフィクレイドにも関心を寄せた。今このパートはテューバで演奏される。
弓の背部で弦を小気味よく叩くコルレーニョ奏法(毛の先端部で弾く場合もあり)や、ティンパニ奏者の手の動きが視覚をも刺激。魔女たちの「響宴」は最高潮に達する。
時空を超えたオーケストラ芸術に尽くすマエストロ高関健とファンの声援も熱い仙台フィルで聴く「幻想交響曲」。期待は限りない。
第1楽章:夢と情熱
第2楽章:舞踏会
第3楽章:野の情景
第4楽章:断頭台への行進
第5楽章:ワルプルギス(サバト)の夜の夢~魔女のロンド
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