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プログラムノート(第352回定期演奏会)
2022-01-28
カテゴリ:読み物
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奥田 佳道(音楽評論家)
ブラームス(1833~1897):ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
作曲 1878年夏オーストリア、ヴェルター湖畔ペルチャッハ
初演 1879年1月1日ライプツィヒ・ゲヴァントハウス会館(ホール)、
   ヨーゼフ・ヨアヒムの独奏、ブラームス指揮
献呈 ヨーゼフ・ヨアヒム

気宇壮大かつ技巧的なヴァイオリンはもちろんのこと、オーケストラが奏でる彫りの深い調べ、第2楽章で主役を演じるオーボエ・ソロ、第3楽章の主題に添えられたハンガリー舞曲のテイストも私たちを魅了してやまない。交響的な協奏曲だ。それゆえに、初演後しばらくの間、ヴァイオリン向きではないとの批判も多かった。
曲のスケッチは1878年、ブラームスが愛した避暑地のひとつ、オーストリア南部ヴェルター湖畔の小村ペルチャッハで書かれた。現ケルンテン州(近年は英語の発音カリンシアで国際的に知られる)ペルチャッハは、今も人気のリゾート地である。
ちなみにブラームスは1877年から79年まで、つまり40歳台半ばの夏休みをペルチャッハで過ごし、交響曲第2番ニ長調作品73、「雨の歌」で知られるヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調作品78を紡いでいる。
知将ブラームスは彼好みの凝った言い回しで、ウィーンの論客エドゥアルト・ハンスリック博士にこう書き送った。「ヴェルター湖畔には、手つかずの美しい旋律が飛び交っているので、それを踏みつぶさないように、とあなたはおっしゃることでしょう」。
ペルチャッハの対岸マイヤーニックも後に音楽史の舞台となる。世紀転換期を駆け抜けた鬼才マーラー(1860~1911)が創作用の小別荘を建てたからだ。ヴェルター湖畔にはその後、新ウィーン楽派のひとりアルバン・ベルク(1885~1935)もやってくる。
1878年の夏に本格化したヴァイオリン協奏曲の創作に際しては、少し前にバーデン=バーデンで聴いたサラサーテ(1844~1908)の超絶技巧や、盟友のヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831~1907)が1850年代の後半に書き上げたヴァイオリン協奏曲二短調作品11「ハンガリー風」が頭をよぎったに違いない。ヨアヒムの「ハンガリー風」協奏曲はブラームスに献呈されている。
ここぞという場面で重音が舞うブルッフの協奏曲第1番ト短調や、カール・ゴルトマルク(1830~1915 オーストリア帝国/ハンガリー文化圏出身のユダヤ人作曲家)のヴァイオリン協奏曲第1番イ短調との関連性を指摘する向きもある。ゴルトマルクの協奏曲は1878年10月にニュルンベルクで初演された。

当初ブラームスは、全4楽章の協奏曲を構想。第1楽章を完成させた時点で、いつものようにクララ・シューマン(1819~1896)の前でピアノを弾く。初演を約束していたヨアヒムも、ヴァイオリニストの観点から多くを助言。作曲家、指揮者でもあったヨアヒムは楽章構成の変更(スケルツォ楽章の削減)を求めた上、ブラームスの自筆譜に力強い筆圧で書き込みを行なった。

曲は前掲データのように、ヨアヒムのソロ、ブラームスの指揮によりライプツィヒ・ゲヴァントハウス会館で初演、その後改訂される。
1880年代以降、ヨアヒムのほか、オーストリアのマリー・ゾルタート、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲初演でも名高いブロツキー、ドヴォルザークの協奏曲を初演したオンドジーク、アメリカで活躍したフランツ・クナイゼルが弾いたが、距離を置く音楽関係者も存在した。
ソリストが技巧を発揮するカデンツァは、ヨアヒム作を弾く人が多い。ほかアウアー、ブゾーニ、クライスラー、エネスコ、アドルフ・ブッシュ、ハイフェッツ、ミルシテインがカデンツァを書いている。
しなやかな技と音楽をあわせもつ郷古廉は、さて何を弾くだろうか。

第1楽章:アレグロ・ノン・トロッポ ニ長調
第2楽章:アダージョ ヘ長調
 第3楽章:アレグロ・ジョコーソ、マ・ノン・トロッポ・ヴィヴァーチェ ニ長調
ブラームス(1833~1897):交響曲第3番 ヘ長調 作品90
作曲 1883年5月ヴィースバーデン(ドイツ、現ヘッセン州の州都)
初演 1883年12月2日ウィーン、ウィーン楽友協会大ホールでのハンス・リヒター指揮
   ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団シーズン第2回定期公演
   (この日はドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲のウィーン初演も行なわれた) 

彫りの深い交響曲を聴く。冒頭の創りから凝っている。穏やかなヘ長調の世界と、独特の陰りも魅力となるヘ短調の世界を、自在かつ大胆に行き来するブラームスがここにいる。
曲は1883年夏、20代のアルト歌手ヘルミーネ・シュピースとのロマンスも噂されたライン河畔の温泉保養地ヴィースバーデンで作曲された。ヨハネス・ブラームスこのとき50歳。シュピースは人気のアルトにしてブラームス芸術の良き理解者だった。
ちなみに、ヴィースバーデンを含むライン河畔の北岸地域は中世の時代からラインガウと呼ばれ、ブドウ栽培、ワインの生産地として名高い。
それでブラームスは交響曲第3番のことを、芸術上の恩人ロベルト・シューマンの交響曲第3番「ライン」にならい「ライン交響曲」と呼んだ。シューマンが好んだ下降音型も顔を出す。

ヴァイオリン協奏曲の解説で触れたように、ブラームスは「夏の作曲家」だった。秋から春にかけての音楽シーズン中、指揮者、ピアニストとして多忙だった彼は、ドイツ、スイス、オーストリアの風光明媚な避暑地で創作に勤しむ。
夏にスケッチを描き、それを秋冬の音楽シーズン中にウィーンや演奏旅行先で清書、推敲し、ピアノによる試演を経て、晴れの場で発表する──そんな創作・初演の流れがあった。

美しい世界やロマンへの憧憬に満ちた交響曲第3番が創られたヴィースバーデンは、ヘッセン/ラインガウ地方の由緒ある温泉保養地とは言え、実はイレギュラーな選択だった。かねてからブラームスと親しかったフォン・ベッケラート家の熱心な誘いに応じヴィースバーデンをひと夏の仕事場としたのだが、前述の歌姫シュピースに逢うために選んだとも考えられる。ブラームスは、かの地の温かい雰囲気、フレンドリーな人々に魅了された。
「素晴らしい別荘が提供され、私は領主になったかのような日々を過ごしています。涼しく快適です。いらっしゃいませんか」。
ブラームスが、親友のテオドール・ビルロート教授(ウィーン大学の著名な外科医で作曲、演奏にも通じた偉人)に宛てた手紙からも、1883年夏の満ち足りた日々が浮かび上がってくる。
そんなブラームスのもとには、シュピースはもちろんのこと、近郊のフランクフルトからクララ・シューマン、それにシュピースの声楽教師ユリウス・シュトックハウゼンもやってきた。1883年と言えば、ワーグナーが2月にヴェネツィアで亡くなり、ブルックナーが交響曲第7番を書き上げた年でもある。

この交響曲にライトモティーフ(示導動機)があるとすれば、それはやはり冒頭で管楽器が奏でるファ~ラ♭~ファ(F-As-F)で、音型は別として、冒頭3音が重要なのは交響曲第2番ニ長調と同じ。第3番の3音にはド~ラ~ファ(C-A-F)も続き、まさに短調と長調のあいだを揺れ動く。
全4楽章を通じ、この上なくエモーショナルかつ緻密な音楽が展開される。陰影に富んだソロにアンサンブル。聴きどころは枚挙に暇がない。コントラバス、コントラファゴット、トロンボーン、ティンパニの隠し味も聴き手を喜ばせる。木管楽器たち、ホルンの活躍は申すに及ばず。

稀代の「旋律作家」ドヴォルザークに感銘を与えた交響曲でもある。ウィーンを訪れたドヴォルザークは1883年秋、ブラームス自身のピアノで第1、第4楽章を聴き、暮れの初演にも立ち会った。
いっぽうブラームスはオーケストラ総譜のほかに、2台ピアノ譜、ピアノ連弾譜も作成した。交響曲第3番はウィーンでの初演後、ゆかりの地ヴィースバーデン、そしてライプツィヒ・ゲヴァントハウスなどを巡演。当初は辛辣な評もあった
第1楽章:アレグロ・コン・ブリオ ヘ長調 4分の6拍子
ブラームスの伝記作家カルベックは、F-As-Fの3音を、作曲家の信条frei aber froh(自由に、しかし喜ばしく)の頭文字と解釈。この説は長らく曲目解説に引用された。
第2楽章:アンダンテ ハ長調 4分の4拍子
クラリネットとファゴットがクローズアップされる。交響曲第1番と第4番では限定的に使用されるトロンボーン(交響曲第3番では第1、2、4楽章に登場)の甘い響きも深みと安らぎを演出する。
第3楽章:ポーコ・アレグレット ハ短調 8分の3拍子 
3部形式。ぐっと控え目な楽器編成に息づく奇蹟のロマン。チェロ、ホルンの見せ場、魅せ場が続く。ブラームスが紡いだ夢幻の調べに抱かれる。
第4楽章:アレグロ ヘ短調~ヘ長調 2分の2拍子
内なる尽きせぬ音楽への想いが、ついにあふれ出る趣。例によって変幻する調べも私たちを捉えて離さない。
最後の最後に第1楽章冒頭の動機が回帰するが、それはベートーヴェンの交響曲第5番やブラームスの第1番で示された苦悩から歓喜への美学でも、勝利宣言でもない。穏やかな光に包まれた幕切れ。
調べの余韻を分かち合いたいものである。

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