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プログラムノート(第351回定期演奏会)
2022-01-04
カテゴリ:読み物
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奥田 佳道(音楽評論家)
バーバー(1910~1981):弦楽のためのアダージョ
作曲 1935年~1936年、1937年改訂(弦楽四重奏曲として)
   1938年11月(弦楽合奏曲として)
初演 1936年12月ローマ、プロアルテ弦楽四重奏団
   1938年11月ニューヨーク(ロックフェラーセンターのラジオスタジオ)、
   アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団(放送)

胸をうつ「バーバーのアダージョ」。20世紀アメリカの才人サミュエル・バーバーが紡いだ内に外に烈しい佳品で、しばしば要人の葬儀や追悼式典に用いられる。作曲者自身は「追悼のために書いた訳ではない」と不満を漏らしたようである。
この2分の4拍子!を主体とした息の長い調べは、映画やドキュメンタリー番組も彩る。仙台フィルにとっても忘れがたい音楽である。
もともとは1936/37年に書かれた弦楽四重奏曲ロ短調作品11の第2楽章モルト・アダージョで、バーバー自ら弦楽合奏に編み直した。
1938年11月にアルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団によってラジオ放送され、シャルル・ミュンシュやレオポルド・ストコフスキー、レナード・バーンスタイン、イ・ムジチ合奏団の愛奏曲となった。1940年代前半にトスカニーニがヨーロッパで披露、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団によるカーネギーホールでの演奏と放送で名曲の仲間入りを果たす。そして1963年、暗殺された米ケネディ大統領の葬儀で用いられ、世界に広まった。
編曲も多い。バーバー自身も1967年に混声八部合唱曲「アニュス・デイ」に編曲した。
ヒグドン(1962~):ハープ協奏曲(日本初演)
作曲 2018年
初演 2018年5月10日ニューヨーク州ロチェスター、ヨランダ・コンドナシスのハープ、
   ウォード・ステア指揮ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団

ハープの美しいモノローグで曲は始まる。ほどなく弱音器を付けた弦楽器、そして木管楽器との交歓が聴こえてくる。
委嘱や受賞の絶えないアメリカの作曲家ジェニファー・ヒグドン(JENNIFER HIGDON,Ph.Dr.)の傑作ハープ協奏曲の日本初演とは喜ばしい。今定期演奏会の概要は、世界の音楽関係者が注視する彼女の公式サイトにも載っている。
グラミー賞の常連でもあるジェニファー・ヒグドン。ニューヨーク、ブルックリン生れ。フルートや指揮を学んだ後、フィラデルフィアのカーティス音楽院、ペンシルベニア大学で作曲を専攻。博士号を取得し、両校で作曲、音楽理論のほか20世紀音楽史を教えた。カーティス時代の教え子にヴァイオリンのヒラリー・ハーンがいて、ヒグドンは2008年、彼女のためにヴァイオリン協奏曲を書いている。同コンチェルトはピューリッツァー賞に輝いた。
アーティストとの信頼関係や相乗効果を愛でるヒグドンは近年、協奏曲やオペラに夢中だ。やはりピューリッツァー賞を受賞したパーカッション協奏曲のほか、ユジャ・ワンが初演したピアノ協奏曲、さらにヴィオラ協奏曲、オーボエ協奏曲、ソプラノ・サクソフォーン協奏曲が好評を博す。チャールズ・フレイザーの人気恋愛小説「コールド・マウンテン」のオペラ化も行なった。
アメリカのオーケストラ6団体からの共同委嘱作であるハープ協奏曲は、2020年のグラミー賞を受賞した。
彼女の創作上の美学をあえて挙げれば、人間と自然への愛と賛歌。詩的で情感あふれるフレーズも冴え渡るリズムも素晴らしい。そしてどこかオリエンタルに響く。理論的には、全音と半音を交替に並べたオクタトニック・スケール(八音音階または全半音階)を作曲のひとつの基盤としているようだ。これは19世紀中葉以降のロシアやフランスの作曲家が好んだ音階でもある。

今回が日本/アジア初演となるハープ協奏曲(2018)は、アメリカのハーピスト、ヨランダ・コンドナシスのために書かれ、初演した彼女に献呈された。オーケストラの編成はフルート2、オーボエ2、クラリネット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン2、チューバ1、多彩なパーカッション、弦楽で、楽章は全部で4つ。
創造の瞬間に立ち会うかのような第1楽章「ファースト・ライトFirst Light」。たくさんのドラマを奏でた後、ハープのモノローグで閉じられる。およそ6分半。
ホルンの躍動的なフレーズで始まる第2楽章「ジョイ・ライドJoy Ride」。三連符を効果的に用いたスケルツォ。来たるラップ(第4楽章)への愛すべき伏線。およそ4分半。
第3楽章「ララバイLullaby」。対旋律を奏でるヴィオラ、ヴァイオリン、フルート、打楽器のソロも主役を演じる。およそ5分。
第4楽章「ラップ・ノックRap Knock」冒頭から目も耳も釘づけとなるリズミックでダンサンブルなフィナーレ。「打つ、叩く、奏でる」の連続で、3、5、6連音が歓喜や気まぐれを表現。ハープとオーケストラが「韻を踏む」様にも圧倒される。およそ5分。吉野直子、角田鋼亮、仙台フィルの華やかなテクニック、パフォーマンスに期待。

ラフマニノフ(1873~1943):交響的舞曲 作品45
作曲 1940年8月~10月 8月に2台ピアノ稿が完成、
   10月下旬にオーケストレーション(管弦楽化)が完成。
初演 1941年1月3日フィラデルフィア、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団

作品45。激動の時代を歴史的なピアニスト、作曲家、指揮者として生き抜いた「ロシアの音楽家」セルゲイ・ラフマニノフに、作品46は存在しない。
ラフマニノフ自身「自己の最高傑作であり、過去の総決算」と見なしていた交響的舞曲を聴く。最後の作品である。
彼の言葉を裏づける、精妙にして劇的なオーケストラの響き。各声部を鮮やかに際立たせる対位法。主題の展開と変容がまた素晴しい。祈りの情趣も郷愁の念もたっぷり織り込まれた。サクソフォーンの音色、死の舞踏、グレゴリオ聖歌「ディエス・イレ(怒りの日)がキーワードとなる。そしてロシア音楽ではいつものことだが、鐘が重要だ。若き日の自信作だったのに酷評されてしまった交響曲第1番(1897年初演)の動機も、ここぞという場面を彩る。

曲は、ニューヨーク州ロングアイランドで1940年の夏の終わりから秋にかけて書かれた。当初「幻想的舞曲」と題され、第1楽章<真昼>、第2楽章<夕暮れ>、第3楽章<真夜中>という標題も考えられていた。交響的にせよ幻想的にせよ、タイトルは舞曲である。実はラフマニノフ、盟友の振付家ミハイル・フォーキン(1880年ペテルブルク生れ~1942年ニューヨーク没)との舞台化も構想していたのである。
1909年にピアノ協奏曲第3番ニ短調を携えて初めてアメリカを訪れ、ニューヨークのカーネギーホールではグスタフ・マーラーの指揮で同協奏曲を披露したラフマニノフ。アメリカでは鍵盤のヴィルトゥオーゾ(華麗な技を誇る名手)として絶大な人気を博す。
1917年の十月革命(ロシア革命)と1930年代前半のナチス・ドイツの勢力拡大が、ラフマニノフの運命を激変させる。スイスのルツェルンに滞在した後、最終的にはアメリカで主にピアニストとして活動。祖国に戻ることなく亡くなった。
しかし「交響的舞曲」に諦観、枯淡の境地はない。曲を貫くのは、ロシア、欧米第一線での演奏および創作活動を導いた神への感謝の気持ちであり、ロシア時代からの多様な音楽生活を映し出す圧巻の管弦楽法だ。その源泉に、祖国を失った者の狂おしいまでの叫びがある。
前掲データのように、ユージン・オーマンディ(1899~1985)指揮フィラデルフィア管弦楽団によって初演され、このコンビに献呈された。
「世界最高のオーケストラであるフィラデルフィア管弦楽団の演奏を前提に作曲した」。オーケストラにとって最高の誉め言葉だろう。
最晩年のラフマニノフは、30歳代後半のウラディーミル・ホロヴィッツ(1904~89)をビヴァリーヒルズの自邸に招き、交響的舞曲の2台ピアノ版を弾くことも好きだった。曲を愛していたのである。

第1楽章:ノン・アレグロ ハ短調~嬰ハ短調
冒頭で弦と木管がさりげなく交歓する。ここにラフマニノフは「交響的舞曲」の心臓たるリズムとハーモニーを織り込んだ。アルト・サクソフォーンの哀感たっぷりの響きが私たちを魅了してやまない。コーダ(終結部)には、1897年にグラズノフの指揮で初演された交響曲第1番の第1楽章の響きもこだまする。

第2楽章:アンダンテ・コン・モート(テンポ・ディ・ヴァルス) ト短調
不穏な社会を投影したかのようなワルツが3種。その舞いを断ち切る金管のファンファーレが不気味。去りゆく古き良き時代への嘆きか。

第3楽章:レント・アッサイ~アレグロ・ヴィヴァーチェ 二短調
鐘の音や例の「怒りの日」の旋法に加え、1915年に紡いだ傑作合唱曲「徹夜禱」(晩禱)から<アレルヤ>の調べが、意識的に引用されている。ラフマニノフは、楽譜の当該個所にアレルヤ(神を讃えよ)と書きこんだ。いっぽう、例の交響曲第1番も回帰する。
最後の銅鑼(タムタム)を、どう響かせるか。創造的なパートナーシップで知られる角田鋼亮と仙台フィルのメッセージは、さて。
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