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2019/01/14

第333回定期演奏会プログラムノート<終了しました>

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藤田 茂 (音楽学者)

 

 

100年の時空を超えて

今回演奏される3つの音楽は、互いに100年、あるいはそれ以上の時をおいて、この世に生まれたものである。ベートーヴェンのピアノ協奏曲が成立したのが1790年代、グラズノフのバレエ音楽が上演されたのが1890年代、そして、藤倉の管弦楽曲が初演されたのが2011年。これらの音楽の翼に乗って、わたしたちも大きく時空を翔けていこう。とてもスリリングな体験になるはずだ。

 

藤倉大 Tocar y Lucher(奏でよ、そして闘え)

20世紀の終わりを人々が意識しはじめる頃まで、もっと単純にいえば昭和が終わる頃まで、「現代音楽」は、どこか苦しそうな表情をしていた。「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮だ」。このアドルノの言葉は、依然、そのこだまを響かせていた。わたしたちの文化が、その洗練の果てに、人間による人間の大量虐殺を生んだのであるなら、いまやわたしたちは、(伝統的な意味での)文化に内在する野蛮を警戒しつつ、これを再考しなければならない。アドルノの謎めいた言葉をこれで正しく解したとは思わないけれども、「現代」を標榜する音楽においては、ロマンティックな詩を詠むかのように、あまりに直截的に情感に訴えかけることは憚られていた(少なくとも、そう記憶している)。

しかし、時代は変わる。いま「現代音楽」は、ずっと明るい表情をして、「現代音楽」という様式で歌うのではなく、ずっと自由に「現代」、すなわち、わたしたちがいま生きている時代に声を与えるようになっている。もし、かつての「現代音楽」のイメージにとらわれたままになっているなら、藤倉大(1977-)の音楽を聴こう。そこには、新しい時代の新しい音楽の呼吸があるのだから。

今回演奏される「Tocar y Luchar」すなわち「奏でよ、そして闘え」は、エル・システマジャパンとサントリー芸術財団の共同委嘱作品であり、ベネズエラの音楽教育・社会支援システム「エル・システマ」の産みの親、ホセ・アントニオ・アブレウ博士と、このシステムに育てられた世界的指揮者、グスターボ・ドゥダメルに捧げられている。作曲は2010年。2011年2月に「エル・システマ」の選抜者によるオーケストラである、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラにより、ドゥダメルの指揮で初演されたあと、2012年9月に改訂された。(ちなみに「奏でよ、そして闘え」は、アブレウ博士が、やがて大きな成果をもたらすことになるユース・オーケストラをベネズエラに創設していくにあたって、掲げた言葉であった。)

藤倉によると、この曲を作曲するときにイメージされていたのは、群れになって泳ぐ魚たち、あるいは、群れになって飛ぶ鳥たちだった。そのような群れは、(レオ・レオニの『スイミー』の話にあるように)全体で大きなひとつの生き物となる。それと同じように、藤倉は小さなフレーズを群れにして、ひとつの大きなメロディーをつくる。ちょうど「エル・システマ」のオーケストラにおいて、多様な背景をもった子どもたちがひとつの場所に集い、全体としてひとつの音楽をつくるように。

そこから結果するのは、なんとも心地よい揺らぎの感覚である。軽やかであり、遊びがあり、そして、とても情熱的である。それは、「エル・システマ」が見せてくれたように、音楽が日常の色合いを変え、日常をもっと美しいものに変えてくれるという夢を、わたしたちにも見せてくれる。

 

 

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品19

「芸術家の作品が問題なのではない。芸術家自体のあり方が問題なのだ。」岡本太郎は彼のピカソ論のある章を(ピカソが述べたという)この言葉で始めている。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)を賛美するものならば、この言葉に膝を打つであろう。ベートーヴェンの音楽は美しい。しかし、彼の音楽がもっと美しかったとて、それが現実にそうであったよりも易々と達成されたものであったとしたら、わたしたちはいまと同じだけベートーヴェンに感動するのだろうか。もちろん、これは危険な問いでもあるのだが、彼の《ピアノ協奏曲第2番》は、実際、同じ問いをわたしたちに投げかけているのだ。


ベートーヴェン自身が認めていたように、《ピアノ協奏曲第2番》は、彼の最良の作品ではない。しかし、その創作過程は知れば知るほど興味深く、作品上の「傷」も、まるで創作という闘争の勲章のように感じられてくる。

スケッチ研究が明らかにしたところによると、この協奏曲には段階的に発展する4つのヴァージョンが存在した。その最初のヴァージョンが成立するのは遅くとも1790年、そして、最後のヴァージョンが作成されるのが1798年、さらに、これを底本に出版譜が完成するのが1801年。つまり、第2番という番号が与えられているけれども、この変ロ長調のピアノ協奏曲の起源は第1番のピアノ協奏曲ハ長調よりもはるかに古く、また、その完成時期には、すでに第3番のピアノ協奏曲ハ短調が書き進められていたことになる。10年以上の歳月にわたる変ロ長調協奏曲の成長は、ボンからウィーンへと上京し、ハイドン、アルブレヒツベルガーに師事して作曲の腕を磨いていった、ベートーヴェンの成長の鏡となっているのである。

しかし、その鏡は傷だらけなのだ。その傷は、ベートーヴェンの最初の理想であったモーツァルトと、次第に顕になるベートーヴェン自身が、このピアノ協奏曲で闘いあった結果であったに違いない。第2ヴァージョンのために書かれた終楽章の軽やかなロンド(現在、WoO6と番号づけられている)が、最終版ではずっとダイナミックなロンドに入れ替えられたというだけではない。第1楽章には、それがなければもっと自然に音楽が流れたところに、異様なパッセージが挟まれているのが聞こえてくる。それは、ただ審美的な観点からみれば、まさしく「傷」でしかないのだが、この傷こそがこの協奏曲を魅力的にしているのではなかろうか。

ベートーヴェンの音楽を聴くとき、わたしたちは、やはり作品としての音楽を超えて、ベートーヴェンという人間を聴いているのであり、そして、そのような聴き方を許してくれるところに、彼の音楽のかけがえのない個性がある。

 

 

グラズノフ バレエ音楽「四季」作品67

帝政ロシアが最後の輝きを放つ19世紀の後半、ロシアには魅力的な音楽文化が展開されていた。

音楽史において「五人組」と呼ばれるグループの活動が盛り上がりを見せたのもこの時代のことである。バラキレフをオピニオン・リーダーとして、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフで構成される(批評家スターソフ言うところの)「力強い一団」は、音楽的直感を導きの星として、誰のものでもない、自分たちの魂のうちにある音楽を率直に表現することを望む。それが彼らを「国民楽派」と言わしめたのであった。

それだけではない。当時のロシアは、近代化の一環として、とくにドイツの音楽院をモデルにした公的な音楽教育を制度として整えていく時代にあたってもいた。かくして新設されたペテルブルク音楽院に学んだチャイコフスキーが国際的な音楽家として活躍しており、これに牽引されるように、ロシア音楽界は音楽文化の新たな拠点として、大きな注目を集めるようにもなっていた。

アレクサンドル・グラズノフ(1865-1936)は、こうして成熟したロシアの音楽文化の香気を存分に吸い込んで育つ世代にあたる。「5人組」が1867年にその実質的な結成記念演奏会を開いたとき、グラズノフは2歳だった。チャイコフスキーがペテルブルグ音楽院を卒業して、最初の交響曲を書いたとき、グラズノフは1歳だった。グラズノフが子どもから青年へと成長するのに合わせて、これらの作曲家も「大家」となっていったわけである。そしてグラズノフは、自らが大人となったとき、彼らが磨き上げた「ロシア音楽の伝統」のたすきを、喜んで彼らから受け継いだ。

実際、このバレエ音楽《四季》には、「5人組」とチャイコフスキーの遺伝子が見事に受けつがれ、両者が、決して折衷というのではなくて、グラズノフの個性のなかで統合されているのを聴くことができる。

まず、このバレエ音楽《四季》が、チャイコフスキーの死後6年目にあたる1899年にマリウス・プティパからの委嘱されたものであったこと。このことからして、グラズノフがチャイコフスキーの衣鉢を継ぐ存在であったことは明らかだ。プティパといえば、ペテルブルクのマリインスキー劇場のバレエ・マスターとして、チャイコフスキーとともに豪華絢爛な帝政様式を作り上げたひと。ふたりの共同作業による《くるみ割り人形》は、もしかすると《四季》のモデルになったのかもしれない。どちらのバレエも、過度に物語的になることなく、しかし、しっかりした連続性をもって、さまざまなダンスを披露していくものだからである。《四季》を聴くのに細かな物語的な説明は必要なかろう。このバレエが大筋において、透明な「冬」から実りの「秋」へと向かっていくことさえ押さえていれば充分である。

そして、《四季》に聞こえてくるオーケストレーションの妙の多くは、グラズノフが「5人組」、なかでも直接の師であったリムスキー=コルサコフから学んだものである。弦楽器のユニゾンで引っ張るのではなく、これを適度に分割しながら、管楽器の多彩な音色を引き立たせる。このグラズノフの手腕は、師たるリムスキー=コルサコフのオーケストレーションの免許皆伝を成し遂げたものである。

バレエ音楽《四季》から数年後、グラズノフは、やがてパリを席巻することになる「ロシア・バレエ団」の座長、ディアギレフからバレエ《火の鳥》の音楽を依頼されたというが、グラズノフはこれを断っている。そして、最終的に《火の鳥》を託されたストラヴィンスキーがロシア新時代の旗手となっていくことは周知のとおり。グラズノフは、古き良きロシア(「五人組」とチャイコフスキー)と新しきロシア(ストラヴィンスキー)の結び目を、わたしたちに示してくれる存在なのである。

 

 

もっと知りたい打楽器


竹内 彬
(東京音楽大学大学院 博士後期課程在学中)

弦楽器と管楽器の響きにアクセントや色彩を添える打楽器。古代文明や民族音楽に起源をもつ打楽器は、その土地の音楽を想起させるために西洋の芸術音楽では用いられることが多くありました。ベートーヴェンの《交響曲第9番》の「トルコ行進曲」と呼ばれる部分には、トルコを起源とするトライアングルとシンバルが用いられています。グラズノフの《四季》の「秋」でも、中近東を起原にもち、2世紀頃のローマの浮き彫り『バッカスの勝利』にも描かれているタンバリンが、酒と収穫の神バッカスを祭る祝祭の、人々の賑やかで興奮した様子を効果的に表現しています。一方で、「冬」に使用されるトライアングルは、民族的な意味合いからは離れ、雪や氷の冷たくも美しい煌きを表現しますし、また、同じトライアングルでも「春」においては可愛らしい小鳥のさえずりを連想させます。グラズノフの打楽器の豊かな用法は、ロシア・バレエの祖チャイコフスキーや、直接の師であり管弦楽法の大家でもあったリムスキー=コルサコフから引き継いだものです。

 

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