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2019/08/30

第330回定期演奏会プログラムノート

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藤田 茂 (音楽学者)

 

 

この音楽は何を表現しているのか。それは素朴でありながら、実に深い問いである。本公演で演奏される作品は、いずれもタイトルを持っている––「悲劇的」「ロンドン」「スコットランド」。しかし、最初のタイトルは作曲者が適切であるか悩んでいたものであるし、次のタイトルはその由来が明らかではなく、そして最後のタイトルは作曲者が途中から使わなくなったものだった。

 

この音楽は何を表現しているのか。タイトルは、結局のところ、その断片的な情報でしかなく、わたしたちは、作品が生まれた時代、その作品を書いているときの作曲家の状況などに思いを馳せながら、自分自身に問いかけていくことになる。以下の解説がその一助となればうれしい。

 

ブラームス 悲劇的序曲 作品81

ヨハネス・ブラームス(1833-1897)の《悲劇的序曲》は、作品番号のひとつ若い《大学祝典序曲》とともに1880年に作曲された。ブラームス自身、師でもあり友でもあったライネッケに「一方は泣き、一方は笑う」と説明しているように、これら2つの序曲はペアで構想されたものだった。しかし、「笑い」のほう、すなわち、《大学祝典序曲》が学生歌のメドレーであって、その音楽の内容も元の歌詞に立ち返って類推することができるのに対して、「泣き」のほう、すなわち、《悲劇的序曲》がどのような悲劇の表現であるのかは、誰も明確な答えを持っていない。ブラームスと同時代の批評家で、ブラームス伝の著者として名高いカルベックは、《悲劇的序曲》について、コンサート・ホール用ではなく、劇場とそのオーケストラ用のものだと考え、さらに踏み込んで、この序曲は実のところ「ファウスト」のための序曲であるとの見解を示している。つまり、《悲劇的序曲》は(メンデルスゾーンが得意とした、それ自体で独立した)演奏会用序曲ではなく、演劇の開幕を準備する本当の序曲として着想されたのだと主張しているのだ。とはいえ、カルベックの説が証明されたわけでは決してなく、これもひとつの解釈に止まっている。

 

しかし、大切なのは《悲劇的序曲》の「元ネタ」ではあるまい。それよりもよほど重要なのは、この序曲の喚起力がいかにも甚大であること、聴き手をメッセージを探るように仕向ける力を持っていることである。実のところ、《悲劇的序曲》の「悲劇」は、人間が生きることの根源にある悲劇に関わっているのではないか、だから、この序曲を聴くひとの心の内には、それぞれの抱える悲劇が、それぞれのイメージを通して、生々しく立ち現れるのではないか。

 

構成という面から見るなら、《悲劇的序曲》の全体は、ソナタ形式の枠組みに従っている。冒頭に弦楽器のユニゾンで提示される主題が第1主題である(ニ短調)、そして、ひとつの歌として魅力的な伴奏を従えてヴァイオリンが朗々と歌うのが第2主題(ヘ長調)である。そして、これらが楽曲のなかで戻ってくることも分かる。しかし、このような専門的な楽式に意識的な聴き手であっても、たちどころにその構成要素を判別することはかなり難しいのではないかと思う。というのも、この序曲には、音楽の直線的な流れを中断する様々なエピソードが横溢しているからだ。特に印象的なのは、楽曲の後半に入ってくる葬送行進曲のエピソードだろう(テンポがそこでぐっと遅くなるので、すぐに聞き分けられるはず)。もちろん、この葬送行進曲自体、冒頭の主題(第1主題)から派生したものであるのだが、まるで後のマーラーを予見するかのように、死の場面を差し入れる。

 

初演は1880年12月16日、ウィーン楽友協会ホールにて、ハンス・リヒターの指揮で行われた。

 

 

ハイドン 交響曲第104番 ニ長調 Hob. Ⅰ, 104 《ロンドン》

ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)の生きた18世紀、職業音楽家が歩むお決まりのコースといえば宮廷音楽家の道であり、ハイドンもまた初めはモルツィン伯爵家の宮廷楽長(1757年頃から1761年)、続いて(そして、ずっと長く)エステルハージー侯爵家の宮廷楽長(ただし最初は副楽長、1761年から1790年)としてのキャリアを積んでいた。要は雇われだったのである。楽団員のあいだに諍いがあれば、その仲裁まで楽長の仕事であったというから、ハイドンの職務の大変さは想像に余りある。それでも、作曲の戦略ということでいえば、このときのハイドンは、ある程度、立てやすい状況に身を置いていたといえよう。ハイドンが自作品で満足させるべきは、まずは主人であり、次に主人の客である。長く勤めていれば、彼らの音楽的素養も好みも知れてくるだろうから、それに合わせて作品を作っていれば間違いなかったのである。しかし、時代は動く。音楽生活の中心が、宮廷という半ば閉じられた場から公開演奏会という開かれた場へと、徐々に移っていったのだ。音楽を宮廷という囲いの外へと持ち出すことが、ハイドンにもまた求められるようになっていった。

 

そのときハイドンが遭遇したのが、「聴衆」という経験したことのない群衆であった。この群のなかには、純粋な音楽愛好者もいれば高度な知識を有した音楽の専門家もいる、大胆不敵な響きを好むものもいれば甘美な調べを好むものもいる。素養も好みもまちまちで全体としての顔が見えない集団が、ハイドンの前に立ち現れたのである。

 

ハイドンが最初にこの「聴衆」と四つに向き合ったのは、パリの私設オーケストラ「コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピック」の依頼で、1785年に6曲の《パリ交響曲》群を書いたときだろう。しかし、このときはまだ、曲がりなりにもハイドンはエステルハージー公爵家の宮廷楽長という身分を保持していた。ハイドンはその後、1790年にここを一旦、お役御免になるわけだが、かくしてフリーの身になって再び、そして、もっと直接的に「聴衆」と対面することになったのが、《ロンドン交響曲》群を作曲したときだった。

 

ハイドンは、興行師ザロモンの招きに応じて、まずは1791年から92年にかけて、次に1794年から95年にかけて、現代風にいうならコンポーザー・イン・レジデンスとしてロンドンに滞在し、その間に計12曲の新作交響曲を発表した(第93番から104番)。これらをまとめて《ロンドン交響曲》群と呼ぶわけだが、その最後にあたるのが交響曲第104番《ロンドン》である(名称としては、実に紛らわしい。なぜ特に104番だけに「ロンドン」というニックネームがあるのかは不明である。)。ここには「聴衆」に遭遇したハイドンの真の熟達が見られる。その創作哲学を短く表現するなら「素人に楽しく、かつ、玄人に興味深く感じさせよ」である。第1楽章アダージョの序奏付きのアレグロ)、第2楽章アンダンテ)、第3楽章メヌエット)、第4楽章スピリトーソ)のいずれもが文句なく楽しい音楽であることは、いまさら言葉にするまでもない。しかし、この楽しさは驚くべき職人芸に支えられていることは指摘しておいてもよかろう。そのひとつが主題統一の手腕である。ハイドンは4つの楽章の主題に明らかに関連性を持たせており、これがなければ弟子のベートーヴェンが約10年後に《運命》交響曲を書くこともなかったのではなかろうか。

 

初演は1795年5月4日、ロンドンのキングス・シアターにて。ハイドン自身の指揮による。

 

 

メンデルスゾーン 交響曲第3番 イ短調 作品56《スコットランド》

メンデルスゾーンの交響曲第3番《スコットランド》は、その名の通り、メンデルスゾーンのスコットランド訪問をきっかけに生まれた作品だった。1829年、スコットランドを訪れているときのこと、メンデルスゾーンは日暮れ近くにホリールード宮殿に辿り着いた。その神秘的な佇まい、そこで繰り広げられたスコットランド女王メアリーとリッチオの愛と悲劇(リッチオはメアリーの眼前で殺害された)、そして、宮殿と隣接する廃寺とのコントラスト。メンデルスゾーンは、これらに大いに心動かされ、交響曲を構想し始めたのだった。

 

しかし、この交響曲が完成に到るのは、それから実に12年半後、1842年のことであった。同じく1829年のスコットランド訪問をきっかけに作曲のはじまった序曲《フィンガルの洞窟》が1830年に早々と完成されることを思えば、《スコットランド》交響曲にこれだけの時間がかかったことは不可解に思える。それは決して規模だけの問題ではなく、実のところ、当時の人々のジャンル観の問題と密接に関係しているのである。

 

序曲《フィンガルの洞窟》のほうは「演奏会用序曲」というジャンルに属している。劇場用の序曲は、当然、その後にはじまる現実の演劇を準備するものであるが、演奏会用序曲のほうは、その余韻のなかで架空の演劇が広がるよう聴き手の想像力を刺激するものであった。例えば、序曲《フィンガルの洞窟》が目指すのは、巨人族の王、フィンガルの伝説を、この序曲を聴いた後に空想させることであったのだ。あるイメージを音楽という手段で自由に飛翔させることは、メンデルスゾーンのロマン主義的な感性にいかにもマッチするものであった。

 

しかし、「交響曲」というジャンルは、何よりも「古典的な」形式の堅牢が求めるものだった。理想はもちろんベートーヴェンである。ベートーヴェンの最後の交響曲(第9番)が初演されたのは1824年、ベートーヴェンが亡くなったのも1827年のこと。メンデルスゾーンの世代が交響曲を書こうと思えば、まだ生々しくベートーヴェンを意識せざるを得なかったのである。ベートーヴェンのような見事に構築された形式を実現することは、思うがままに想像の翼を羽ばたかせることと、しばしば矛盾する要求に感じられていた。

 

メンデルスゾーンが交響曲第3番《スコットランド》で味わった12年半に渡る産みの苦しみとは、つまりは、自分のロマン主義的な感性と古典的な形式への要求との折り合いをどうつけるかの苦しみだった。突破口となったのは、シューベルトの遺作、大ハ長調交響曲の体験であった。シューベルトの没後、10年以上が経過した1839年3月、メンデルスゾーンは自らが指揮者を務めるゲヴァントハウスの管弦楽団とともに、これを初演する。確かに交響曲でありながら、(シューマンの言葉を借りれば)「ベートーヴェンの道を続けていこうとは夢にも思わない」大ハ長調交響曲に、メンデルスゾーンが新たな力を得たことは想像に難くない。

 

かくして交響曲第3番《スコットランド》は、まさしくロマン派交響曲の真髄といえる作品に仕上がっている。第1楽章アンダンテ・コン・モートの序奏からアレグロ・ウン・ポーコ・アジタートへと接続されていく音楽は、第2楽章ヴィヴァーチェ・ノン・トロッポ第3楽章アダージョを経て、第4楽章アレグロ・ヴィヴァーチッシモ、そして、アレグロ・マエストーソ・アッサイへと流れ込んでいく。すべての楽章の主題が第1楽章の序奏で奏でられる印象的な楽章から紡ぎ出されたものであることからもわかるように、この交響曲は形式的にも堅牢なものである。しかし同時に、スコットランドの神秘的な雰囲気のなかに聴き手を誘い込んでいく力をもっている。

 

初演は1842年3月、メンデルスゾーン指揮、ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団。翌年にスコアが出版されるまでに、メンデルスゾーンは、さらに大小、様々な改訂を施し、今日に伝えられる形が出来上がった。

 

 

もっと知りたいクラリネット


竹内 彬
(東京音楽大学大学院 博士後期課程在学中)

現代において、初演を行うオーケストラに何の楽器がないかなんて心配する必要はありませんが、ハイドンの時代では各楽団の楽員構成に合わせて、作品の楽器編成を決めなければなりませんでした。

1700年頃に生まれたクラリネットも、この時代には5鍵式に改良され、芸術音楽においても多く用いられるようになりましたが、歌口は現在とは上下逆さまで、見た目も音色もまだまだ今日の楽器とは大きく異なっていました。加えて、オーケストラにもまだ定席がなく、モーツァルトは自分の楽団にクラリネットがいたらなぁと嘆いています。ハイドンが長く仕えたエステルハージ侯爵家も同じ状況であり、ハイドンがクラリネットを交響曲に用いるのは、自由音楽家になってから書いた第99番が初めてでした。しかし、第104番《ロンドン》同様に、トランペットやホルンのように音量補強として、狭い音域内だけで使われており、ハイドン作品におけるクラリネットの活躍は最晩年の《天地創造》や《四季》まで待たなければなりません。

 

このコーナーでは、作品の生まれた当時のオーケストラの状況や、楽器がどのような発展段階にあったかなどをお伝えしていきます。

 

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