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2019/03/1

第326回定期演奏会<終了しました>プログラムノート

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藤田 茂 (音楽学者)

 

 

過去は、もはや・・・ここにないものである。それだけに過去は、いまだここにない未来と同じく芸術家の想像力を刺激する。ここでいう過去とは、ひとりの人間の経験の中にある近しい過去のことではない。もっと遠くにある過去、ひとりの人間の人生には収まりきらない人類史的な過去のことである。

 

エルガー、バントック、ブラームス、シューマンは、今回のプログラムにおいて、この過去と向き合う。もちろん彼らは、もはやここにない過去を、ここにないという理由で権威にすり替えたりはしない。彼らは、それぞれの想像力のなかで過去と真摯に対話し、それぞれの方法で過去に意味を与えていく。そのときはじめて過去は時の廃墟からよみがえるのだろう。これからわたしたちが、これらの作品にわたしたち自身の意味を与えていくように。

 

バッハ/エルガー:幻想曲とフーガ ハ短調 BWV537

西洋音楽史が古典派と呼ぶ18世紀中頃以降の音楽は、基本的にはホモフォニーの音楽であった。大雑把にいえば、旋律にそれを伴奏する和声がついた音楽であった。しかし、その直前にあってバロック時代の音楽実践を集大成したバッハの音楽は、ポリフォニーの音楽であり、そこでは複数の声が響き合っている。この本質的な違いゆえに、古典派以降の作曲家にとって、バッハの音楽はある意味で異物であり、まさしく「古楽」であった。これがバッハを吸収したいという情熱を刺激してきたのだが、もちろんそこに正解はない。

 

今回の演奏会の冒頭を飾るバッハ/エルガーの《幻想曲とフーガ》は、もともとバッハがオルガンのために書いた音楽(BWV537)を、イギリス楽壇の重鎮であったエドワード・エルガー(1857-1934)がオーケストラに移し替えたものであるが、これをメディアの「移し替えにすぎない」ということはとてもできない。実際、エルガーの仕事は、原曲において手鍵盤・足鍵盤で演奏される4声を、大オーケストラの豊富な音色のパレットを使って色分けすることに終わらなかった。彼は、もともとは声部進行の結果としてあった和声を著しく強調あるいは増強し、バッハのポリフォニー様式をある意味で強引にモノフォニー化してみせる。ここにハープが積極的に関わっているのは見逃せない。ハープはベルリオーズ以降の近代オーケストラを象徴する楽器なのだから。エルガーは「もしバッハがわたしたちと同じ手段をもっていたら実現したであろう、壮麗・壮大・絢爛な響き」を作りだそうとしたと述べているが、この編曲が実際に示しているのは、単なる規模の拡大以上の様式的コンセプトの大転換なのである。

 

1920年にもちあがった最初の構想は、友人のリヒャルト・シュトラウスが〈幻想曲〉部分を、エルガーが〈フーガ〉部分をオーケストレーションするというものであったが、シュトラウスの仕事は進まず、結局、全曲をエルガーがオーケストレーションした。先に完成していた〈フーガ〉が1921年10月にユージン・グーセンスによって初演されたあと、1922年9月、グロスター大聖堂において、全曲がエルガーの指揮で初演された。

 

 

バッハ/バントック:「目をさませと呼ぶ声が聞こえ」

バーミンガム大学の教授職をエルガーから受け継ぎ、イギリス楽壇の名士として知られたグランヴィル・バントック(1868-1946)。彼のバッハ編曲に無理に独創性を見出そうとするのは、おそらく筋違いであろう。実際、この「目をさませと呼ぶ声が聞こえ」は、バッハの音楽のもっとも穏便なオーケストラへの置き換えであり、また、バッハ自身がコラール・カンタータ(BWV140)の第4曲からオルガン・コラール(BWV645)へと編曲している楽曲を、再度オーケストラへと編曲する、いわば二重の編曲でもある。

 

バントックの編曲でホルンに託されて聞こえてくるのは、もともとのカンタータでテノールが次のように歌う旋律であった。「シオンは聴く、見張りが歌を歌うのを。/心は喜びに沸き/シオンは目覚め、急ぎ立ち上がる。/シオンの友が天より輝き下り/その恩寵は揺るぐことなく、真理は強大である。/シオンの光が輝きはじめ、シオンの星は高く昇る。/来れ、真の王/主イエス、神のひとり子よ! /ホザンナ! /皆で喜びの間に向かい/主と晩餐を共にしよう。」そして、この喜びの歌を弦楽器のアラベスクが包み込む。

 

もしこの編曲にはっとするところがあるならば、それはこの大きな枠組みのなかから葉ずれの音のように微かに聞こえてくる管楽器の対旋律であろう。原曲の演奏において、このような対旋律は、通奏低音奏者が和声を充填しつつ即興的に加えるものであるに違いない。しかし、当然ながらバントックはすべてを書き込み、そして、書くという熟考の行為によって、バッハの原曲に彼自身のフィニッシング・タッチを添えるのである。

 

正確な編曲年は不明であるが(1932年という説もあり)、バントックのバッハへの敬愛が一時的なものでなかったことは、彼が別のカンタータ(BWV208)から「羊は憩いて草を食み」を弦楽オーケストラ用に編曲していることからも伺い知ることができる。

 

 

ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 作品56a

ヨハネス・ブラームス(1833-1897)は、過去と向き合う真剣さにおいて人後に落ちなかった。とくにドイツ語圏において、彼はベートーヴェンの偉業を継承する交響曲作曲家として生前から高く評価されていたから、ブラームスといえばベートーヴェン主義者だというのが一般的なイメージとして強くあるかもしれない。しかし、実際のブラームスは、早くも1850年代から、歴史的に重要だと思われる音楽を五線紙に書き写し、研究用の譜例集を自作していたのであり、そこには16世紀から18世紀の多様な作品が含まれていることが知られている。つまり、ブラームスは、ベートーヴェンだけを見ていたのではなく、ベートーヴェンもその一部である音楽的伝統をもっと広く見ていたのだった。

 

今回演奏される《ハイドンの主題にもとづく変奏曲》の出発点となる「ハイドンの主題」も、この自作譜例集のなかに書き取られた音楽であり、「ハイドンによる管楽器のためのディヴェルティメントより第2楽章。聖アントニウスのコラール」との注記がなされている。今日では、この《ディヴェルティメント》は偽作である、すなわち、ハイドンの様式を真似た他の人物(おそらくは弟子のプレイエルによる)の作品であると考えられているが、そもそもブラームスにとって、作者は大した問題ではなかったろう。重要なのは、誰の作品であるかということではなく、これが18世紀のコラール様式の優れた例であるということだった。

 

ブラームスの真骨頂は、こうして研究用の譜例集に加えられた過去の一様式を、彼が引き出しとしてもっているその他の様式と掛け合わせ、これを連続的に変形していくところにある。実際、この変奏曲の「ハイドンの主題」は、(低音を弦楽器で補強する以外は)ほとんどブラームスが書き取ったままであるのに、同主題がフィナーレに至るときには、そこから派生した定旋律にもとづくパッサカリアに変わっているのである。つまり、この変奏曲で体験されるのは、ハイドンの名とともにあったコラール様式が、(ブラームスのなかでは確実に)バッハの名とともにあるパッサカリアの様式へと変容する様なのである。しかも、この変容の過程をつくる8つの変奏曲は、(これもまた、ブラームスのなかでは確実に)ベートーヴェンの名とともにある)交響曲の様式に則って展開されていく。つまり、早いテンポで進む第1、第2変奏は交響曲の第1楽章の役割を担い、テンポを緩めレガートで旋律を奏でる第3、第4変奏は交響曲の第2楽章(緩徐楽章)の役割、再びテンポを速めてスタッカートを多用する第5、第6変奏は第3楽章(スケルツォ)の役割、そして、一種の間奏曲としての第7変奏を挟んで、風のように駆け抜ける第8変奏が交響曲の第4楽章(フィナーレ)の役割を果たすのである。

 

今回演奏される管弦楽版の他に、2台ピアノ版もある。管弦楽版の初演は1873年11月、ブラームス自身がウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して行われた。

 

 

シューマン:交響曲第2番 ハ長調 作品61

「ベートーヴェンのあとで交響曲を計画するのは不可能だ。」この世にいうベートーヴェン問題を、誰よりも深く負っていたのは、実は、ブラームスではなくて、ロベルト・シューマン(1810-1856)だったのではなかろうか。シューマンは、まだピアノ曲の作曲家と見なされていた1830年代(あるいは、それ以前から)交響曲を書くことを夢見て、その度に、敗れ去ってきた。シューマンの絶対的な偶像はベートーヴェンであり、彼はベートーヴェンに匹敵する交響曲を残そうともがいていたのである。

 

しかし、ベートーヴェンを基準にして交響曲の良し悪しを測っている限り、ベートーヴェンを乗り越えることはできない。シューマンは、おそらくシューベルトの大ハ長調交響曲《ザ・グレート》に触れたとき、この矛盾にはっきり気づいた。彼は、シューベルトの生前に演奏の機会を得ぬまま仕事机のなかに埋もれていた《ザ・グレート》を1839年に発見する。そして、スコアを丹念に読み解きつつ、シューベルトがこの交響曲においてベートーヴェンの「第9交響曲の道を続けていこうとは夢にも思わなかった」ことを確認するのである。ベートーヴェンと違った方法を模索することで、ベートーヴェンに並びうる交響曲への道が開ける。この認識こそ、シューマンにとっては天啓であったのだ。

 

かくしてシューマンは1841年、彼の第1交響曲である《春の交響曲》を完成させる。念願叶っての初の交響曲である。そして、1845年のドレスデンでの演奏会にて、再度、シューベルトの《ザ・グレート》を聴く機会を得たシューマンは、再び交響曲の創作へと駆り立てられていく。こうして生まれたのが今回の公演の最後を飾る《交響曲第2番》であった。

 

第1楽章は長大な序奏(ソステヌート・アッサイ)に導かれるアレグロ・マ・ノン・トロッポの楽章。第2楽章は(2つのトリオをもつ)アレグロ・ヴィヴァーチェスケルツォ楽章。第3楽章はまさしく表情豊かなアダージョ・エスプレッシーヴォの楽章。そして、第4楽章は、急速に駆けていくアレグロ・モルト・ヴィヴァーチェのフィナーレ楽章。この構成自体、ベートーヴェンの第9交響曲を彷彿させるものであるが、同時に、(たとえば、第1楽章の序奏からアレグロに至るところなど)構造上の切れ目をほとんど感じさせることなく音楽が連続的に進展していくところなどは、シューベルトを想起させよう。

 

もちろん、モデルはそれだけではない。同時期にシューマンはバッハ研究に打ち込んだことが知られており、たとえば第3楽章の第2トリオの線的なパッセージにおいてはバッハの名前がB-A-C-H(すなわちシ♭−ラ−ド−シ)の音で織り込まれていることが指摘されている。また、付点のリズムを活用しながらハ長調の明朗にして壮大な響きをつくるところは(シューベルトと並んで)モーツァルトの《ジュピター交響曲》の影響を受けたのではないかと推察されてもいる。また、第4楽章の最後に響き渡るコラールの旋律は、ベートーヴェンの歌曲集《遥かなる恋人に》からの引用であると言われもする。

 

しかし、やはり奇跡的に思われるのは、(ベートーヴェンから継承した)モチーフ展開と(シューベルトから継承した)歌謡性とを高度に総合し、シューマン自身の書法を生み出しているところである。シューマンの書いた最良のアダージョである第3楽章のあの美しい旋律は、それ自体で完全な歌曲となりえる歌謡性を有しているけれども、この歌は、その実、前の楽章のモチーフから連続的に引き出されてきたものであり、さらに、それに続く第4楽章においては、ソナタ形式の第2主題の役割を果たす。このような書法は、もはや引用や参照の次元にはない。過去を真の意味で継承し、過去を創造へと転換させる行為である。かくして、シューマンの《交響曲第2番》は、こうしてロマン派交響曲の新たなモデルとなった。

 

初演は1846年11月、《ザ・グレート》の初演者でもあり、シューマンの盟友であったメンデルスゾーンが、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮して行った。

 

 

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