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2019/01/28

第325回定期演奏会プログラムノート

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藤田 茂 (音楽学者)

 

 

ショスタコーヴィチとシューベルトほどに性格の異なる音楽を書く作曲家がいるだろうか。確かにふたりには、ベートーヴェンの時代から継承した古典的な形式感を自分の時代に合わせて高度に個性化したという共通点がある。しかし、この共通点は、両者の類似性を指し示すよりは、両者の異質性を際立たせる方向に働く。ショスタコーヴィチの音楽が、厳しい政治的現実と戦う20世紀の人間の皮膚感覚を伝えてくるとするなら、シューベルトの音楽は、空想の世界を現実世界と同じだけリアルに感知する19世紀ロマン主義に独特な感性を伝えてくる。今回の公演でわたしたちが耳にするのは、19世紀と20世紀のコントラスト、個人を超えたところに存在する「時代の様式」の違いである。それは21世紀の音楽を見つめるわたしたちに、またとない視点を提供してくれるだろう。

 

ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番 変ホ長調 作品107

ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906-1975)は、ソヴィエト連邦を代表する作曲家として常に国内外から注目される存在であった。彼の音楽家人生が平坦だったと言いたいのではない。1936年には、オペラ《ムツェンスク群のマクベス夫人》が「音楽ではなく支離滅裂」との批判を浴び、作曲家生命(あるいは、本当の命)の危機に瀕したし、約10年後の1947年には、今度は、ハチャトゥリアン、プロコフィエフらとともに、ショスタコーヴィチの創作全般が内容を欠いた「形式主義」だと批判され、再び窮地に立たされた。しかし、ソヴィエト連邦共産党執行部が主導したという、これらの批判の標的になること自体、ショスタコーヴィチの影響力が政権の側から見ても見過ごせない大きさをもっていたことを示している。ショスタコーヴィチは国家的批判の都度、名誉回復に努め、政治権力から要求される音楽と自己表現とのバランス(あるいは二重性)を巧みに実現しながら、ついに押しも押されもせぬ国際的名声を確立した。

 

チェロ協奏曲第1番は、ショスタコーヴィチが2つの大きな国家的批判の危機を乗り越え、作曲の自由を再び我ものにした時期の作品であった。1959年9月にまずピアノ伴奏版がモスクワで初演されたあと、つづいて同年10月に管弦楽版がレニングラード(現、サンクトペテルブルク)、とモスクワで初演された。いずれの初演も大成功であり、この作品は、チェロのために書かれたもっとも優れた協奏曲として、直ちに認められた。

 

ショスタコーヴィチが作曲段階から初演者に想定していた(そして、実際に初演を担当した)のは、同じソヴィエト連邦に生きた世紀のソリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチだった。チェロだけでなく、ピアノや作曲にも秀でていたロストロポーヴィチは、1943年に入学したモスクワ音楽院でショスタコーヴィチに師事したこともあったし、また、1950年代の全ロシアをめぐる演奏旅行で、ショスタコーヴィチのチェロ・ソナタを作曲者と共演して回ったこともあった。両者は深い尊敬と友情で結ばれていたのである。チェロ協奏曲第1番(また、後の第2番)は、その果実である。

 

この協奏曲で最大のスポットライトを浴びるのは、当然ながらチェロである。ホルン、クラリネットも副次ソリストのような役割を演じるため、この作品には、管弦楽のための協奏曲の趣も感じられる。驚異的な記憶力と前代未聞のヴィルトゥオジティーをもっていたロストロポーヴィチは、その至難な独奏チェロ・パートを最初から暗譜して演奏してみせ、ショスタコーヴィチを驚嘆させたという逸話が残っている。

 

全体は4つの楽章からなる。しかし、より大きくは、第1楽章と、切れ目なく演奏される残りの3つの楽章という、大きく2つの部分からと捉えられよう。第1楽章(アレグレット)は、ショスタコーヴィチによれば「スケルツォ風の行進曲」である。4つの音からなるこの協奏曲の主要テーマが冒頭から提示され、熱っぽい雰囲気を作り上げていく。第2楽章(モデラート)は、弦楽合奏の伴奏による民謡風の歌。どこか悲痛な雰囲気をまとってはじまり、次第に大きな感情の高まりを見せる。第3楽章は、独奏チェリストのための「カデンツァ」が独立した楽章となったもの。なるほど他の楽章に組み込まれるにはあまりに存在感が大きく、チェロの表現力の限界に挑戦している。第4楽章(アレグロ・コン・モート)は、まさしく無窮動であり、複数の舞曲が連続する。そのなかで旋律の動きが少しずつ形を変えてゆき、協奏曲全体を通して鳴り響いてきた主要テーマに戻ってくる。

 

 

シューベルト:交響曲第8番(第9番) ハ長調 D.944「ザ・グレート」

この交響曲はフランツ・シューベルト(1797-1828)が完成させた最後の交響曲であり、その長大さゆえに、また、同じ調性による第6番と区別するために、「大ハ長調(ザ・グレート)」ともよばれている。初演は、1839年3月21日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスにて。作曲家の死後すでに10年が経過していたときである。指揮棒をとったのは、しばらく前から名門の誉れ高き同オーケストラの常任指揮者の地位にあったフェーリクス・メンデルスゾーン、そして、この忘れられた大ハ長調交響曲を遺稿のなかに発見し、いち早く演奏されるべくメンデルスゾーンのもとに送ったのがローベルト・シューマンであった。シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン-19世紀を生きた3人の音楽家のこの精神の交流は、音楽史におけるもっとも美しい話のひとつとして知られている。

 

生前のシューベルトは、何よりもリートの作曲家として知られていたのであって、今日演奏されるシューベルト最後にして最大の交響曲が最初に日の目を見るその日まで、多くのひとは交響曲作曲家としてのシューベルトについて、ほとんど何も知らなかった(第6番がシューベルトの没後まもなく演奏されていたとはいえ、である)。先のシューマンは、この大ハ長調交響曲の初演を実現させてしばらく、「今にほかの交響曲も公開されるだろう」と感慨深げに述べている。実際、シューベルトの交響曲は、この後、次々と公開演奏の場で取り上げられることになり、シューベルトはその死後に交響曲作曲家として復活を果たした。

 

そもそもシューベルトが交響曲を公開演奏するのに積極的でなかったのは、彼の初期交響曲群(第1番から第6番まで)は、学生時代の仲間のために書かれた半ばプライベートな作品だったからである。それに公開演奏するとなると、必ずや同時代の偉人、ベートーヴェンと比較されるに違いない。実際、シューベルトはベートーヴェンより30歳近く若かったけれども、両者の没年は一年しか違わない。彼らは同じウィーンに生活する同業者だったのである。シューベルトが交響曲においてベートーヴェンに比肩しようとすればするほど、彼は交響曲を完成させられなくなっていった。この大ハ長調交響曲は、(トロンボーンを3本用いるなど)ベートーヴェンを強烈に意識したシューベルトが、最晩年になってようやく完成させることのできた交響曲であった。

 

このシューベルトのためらいが、後代において交響曲の番号付けを混乱させる直接の原因となっている。今日、この大ハ長調交響曲は、多くの場合第8番と呼ばれ、その作曲は1825年から26年のあいだだとされている。しかし、この交響曲は最初、第7番とよばれ、後には第9番とも呼ばれ、その作曲年代もかつてはシューベルトの没年である1828年と考えられてもいた。最初、第7番とよばれたのは、6つの初期交響曲群のあとに書かれた1822年の《未完成交響曲》が知られていなかったからであり、後に第9番と呼ばれることがあったのは、《未完成》のあとの1825年に、さらにもうひとつの交響曲(通称《グムンデン・ガスタイン交響曲》)が書かれたに違いないと考えられたからである。しかし、資料研究の進展により、《グムンデン》はすなわち大ハ長調交響曲であるらしい、ということになり、結果、大ハ長調交響曲に与えるべき番号は《未完成》につづく8番、その作曲年代は、《グムンデン》のものと考えられていた1825年あたり、というところに落ち着いたのである。実のところ、この作曲年代と番号付には、もっと違った立場もあって一筋縄にはいかないのだが。

 

ところで、先のシューマンが、この交響曲に「天上的な長さ」を認めたことはあまりに有名である。この言葉には、単に規模が大きいという以上に、詩的な意味での「終わりのなさ」が含意されている。終わらない時間、人間が生きる死へ向かう時間が超越される天上の時。実際、この交響曲では、主題が徹底的に展開されるかわりに、ある旋律から別の旋律へと音楽が歌い継がれていく。まるで永遠に続く連歌のように。第1楽章は、アンダンテの導入部をもったアレグロ・マ・ノン・トロッポのソナタ楽章。第2楽章は、アンダンテ・コン・モートの緩徐楽章で、2つの部分が交替するリート形式。第3楽章アレグロ・ヴィヴァーチェのスケルツォで、第4楽章アレグロ・ヴィヴァーチェで幕となる。しかし、作品は閉じられても音楽はおわらない。最後の音を聞いてない耳の奥でひそかに響く沈黙の調べが、おそらくは天上の音楽と呼ばれるものなのだろう。

 

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