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2018/10/1

第322回定期演奏会<終了しました>プログラムノート

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藤田 茂 (音楽学者)

 

音楽は自由だ ― 越境する喜びに寄せて 

 

音楽がどこまでも自由な存在であればこそ、音楽を分類しようとする誘惑もまた大きい。この曲は交響曲、あの曲は協奏曲・・・そんなふうに、すべての曲がきっちり用意したファイルに収まってくれればいうことなしだ。しかし音楽のほうは、人間の思惑などどこ吹く風、勝手気儘に枠を飛び越える。今回の公演は、そのような音楽の自由を体現する魅力的な曲者たちを集めてみる。ジャンルの境界なんてものは、もしかしたら、わたしたちの側に幻想に過ぎないのかも。

 

 

モーツァルト 交響曲第32番 ト長調 K.318

交響曲第32番は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)の交響曲のなかでも特に変わり種として知られている。普通、交響曲といえば4つの楽章からなるものだけれども、この交響曲にはひとつの楽章しかない。その代わりに、このひとつの楽章の内部がきれいに3つに分かれるのである。大きくいえばA-B-Aの形式。アレグロ・スピリトーソの急速な部分(A)にはじまった音楽は、アンダンテの緩やかな部分(B)を挟んで、最後に冒頭と同じアレグロ・スピリトーソ(A)を取り戻す。

 

このような形式が、バロック時代のイタリアで盛んに書かれたオペラやオラトリオの序曲の形式に通じていることは、これまでにも繰返し指摘されてきた。それゆえ、モーツァルトの権威のなかにも、この交響曲は本来、序曲であったに違いないと考えるひとが少なからずいたのである。19世紀にモーツァルトの伝記研究で名を馳せた作者ヤーンが交響曲第32番は「ある劇の序として書かれた」といえば、その改訂に取り組んだダイタースは劇音楽《エジプト王ターモス》の消失した序曲がそれだといい、さらにモーツァルトの作品目録の改訂で有名なアインシュタインは未完に終わったジングシュピール《ツァイーデ》の序曲が交響曲第32番の正体だと考えたのである。

 

そうかもしれない、そうではないかもしれない。恐ろしいのは、モーツァルトに聞いたら「どっちでもいいじゃない」と言いかねないことだ。かつてのイタリアでは、オペラやオラトリオの序曲(あるいは、より広く器楽部分一般)がシンフォニアと呼ばれていたように、舞台用の序曲(シンフォニア)と演奏会用の交響曲(シンフォニー)の垣根は、モーツァルトの時代、いまよりずっと低かった。実際、モーツァルトは交響曲第32番を他の作曲家のオペラの序曲としてそのまま提供することもあれば、まさしく交響曲として演奏会に提供することもあったのである。

 

この作品の自筆譜には「1779 年4月、ザルツブルク」の書き込みがある。これは、モーツァルトがよりよい職場を求めてマンハイム、パリを旅行しながら、結局、故郷ザルツブルグに戻ってきて数ヶ月の頃である。これらの音楽的都会の経験は、かつては「バッソ」とひとくくりにされた低声部が、いまやチェロやファゴットのための独立したパートに分解されたところに現れているかもしれない。しかし、もっと直接的な影響は、つづく協奏交響曲に現れることになる。

 

 

モーツァルト 協奏交響曲 変ホ長調 K.364(320d)

モーツァルトは1787年、旅行先のパリで協奏交響曲の人気を目の当たりにした。この協奏交響曲は、よく複数の独奏楽器をもつ協奏曲と説明される。そして、その意味でバロック時代の合奏協奏曲の生き残りだと言われることもある。確かに、それは面白い見解なのだが、このような説明の仕方は、あくまでも協奏交響曲を協奏曲の一ジャンルとして理解しようとしてなされるものなのだ。

 

しかし実際に協奏交響曲を聞いてみれば、これが読んで字のごとく「協奏曲」と「交響曲」の要素をあわせもつ、ハイブリッドな音楽であることが感じられるのではなかろうか。協奏交響曲には、この時代の協奏曲を特徴づけている独奏楽器と管弦楽とのスリリングな交替というものはあまりない。むしろ独奏楽器は管弦楽のなかに自然に溶け込み、管弦楽は独奏楽器を優しく包み込む。とするならば、協奏交響曲は合奏協奏曲という過去を向いているというよりは、ベートーヴェン以降の協奏曲、すなわち限りなく交響曲の理想に近づいていく協奏曲を予見しているようでもある。ああ、分類しようとした途端、なんとも頭を悩ませるジャンル、それが協奏交響曲というものなのだ。

 

実はモーツァルトは、パリ旅行の前の1774年にも《コンチェルトーネ》を作曲していた。2つのヴァイオリンを独奏楽器としながら、オーボエやチェロも同様の役割を引き受けるこの作品は、パリにもっていけば協奏交響曲と呼ばれてもおかしくない音楽だった。このような下地があったものだから、パリに到着したモーツァルトは、すぐさまオーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットを独奏楽器とする協奏交響曲を作曲できたのだった。しかし、これは現地では演奏されないまま行方知れずになってしまった。今回演奏されるのは、1779年にザルツブルグに帰郷したモーツァルトが(未完に終わったイ長調のものとあわせて)作曲したものである。

 

独奏楽器に指定されているのはヴァイオリンとヴィオラで、後者は半音高く調弦するように指示されている。こうすれば弦の張力が高まるだけでなく、この変ホ長調の楽曲を運指上はニ長調で弾くことになって(弦を指で押さえずに)開放弦で弾くことも増える。つまりは、ヴィオラは、ヴァイオリンを向こうにして、充分に存在感のある楽器として全面に出てくるのである。こうして、これら2つの楽器は独奏者の役割を担いながら、しかし管弦楽のなかに優しく織り込まれ、協奏曲でも交響曲でもない、まさしく協奏交響曲をつくりあげていく。

 

 

バルトーク 管弦楽のための協奏曲

そして協奏交響曲のあり方を先へ先へと押しすすめていったところに、管弦楽のための協奏曲というアイデアも成立する。バルトーク・ベーラ(1881-1945)いわく、管弦楽のための協奏曲とは(ヴァイオリンやフルートやトランペットなど)オーケストラの個々の楽器が、あるいは(弦楽や木管や金管など)オーケストラの各々の楽器群が、協奏曲の独奏者のように扱われる音楽である。つまりは、普通の意味での協奏曲のように、独奏者と伴奏者の役割はもはや固定されたものではなく、どのような楽器あるいは楽器群も、その時々で独奏者を演じたり伴奏者を演じたりする可能性に開かれているのだ。「ひとりは皆のために、皆はひとりのために」。これを地でいく音楽であるといえよう。

 

管弦楽のための協奏曲という言葉自体は、バルトークが発明したものではなかった。1939年には、同じハンガリーの同僚であるコダーイが同じタイトルで管弦楽作品を作曲している。バルトークはこの楽譜を丹念に読んでいたことが知られているから、彼が自分の《管弦楽のための協奏曲》を着想したとき、コダーイからの少なからぬ影響があったことは事実だろう。しかし、この言葉で表される「全員独奏者かつ全員伴奏者」という新たな管弦楽書法をポピュラーにしたのは間違いなくバルトークであった。

 

バルトークは、ヨーロッパで拡大するナチスの脅威を逃れて、第2次世界大戦の開戦に前後してアメリカ合衆国に渡った音楽家のひとりだった。民族音楽の研究者としてコロンビア大学に職を得るものの、祖国ハンガリーに魂を置き去りにしてきたと感じていたバルトークは、創作に向かう精神的エネルギーを自分の内に見出せないでいた。しかし、バルトークには彼の絶対的才能を信じて疑わない支持者たちが多くいたのである。そのひとりであるヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティは、ボストン交響楽団の常任指揮者であり、同時代音楽の大支援者(メセナ)として知られた財団の運営者であるセルゲイ・クーセヴィツキーを促して、1943年、きわめて条件の良い作品委嘱をバルトークにもたらした。最初は気乗りのしない様子のバルトークであったが、同年の8月末から委嘱作の作曲に没頭し、7週間でこの《管弦楽のための協奏曲》を生み出す。1944年12月1日に初演を終えたクーセヴィツキーは、この作品を「ここ25年で最良の管弦楽作品」と讃えたという。

 

全体は5つの楽章からなっていて、それぞれにイタリア語のタイトルがつけられている。第1楽章は〈Introduzione導入〉、第2楽章は〈Giuoco delle coppie対比の戯れ〉、第3楽章は〈Elegia哀歌〉、第4楽章は〈Intermezzo interrotto遮られた間奏曲〉、第5楽章は〈Finale終曲〉。これを読むだけでも、ある程度、楽章ごとの音楽の性格は伝わってくるだろう。ひとことだけ添えておくと、第4楽章のタイトルは、ドビュッシーのピアノのための前奏曲〈遮られたセレナード〉のパロディである。そして音楽自体もパロディ的なところがあって、ここではショスタコーヴィチの交響曲第7番の主題が茶化されているらしい。バルトークは自分の音楽がアメリカでは理解されないのに、ショスタコーヴィチは当地で大人気だったことを皮肉ったとの噂だ。

 

しかし、そのような小話が意味をなくした今でも、当然ながら《管弦楽のための協奏曲》は輝きを失っていない。この音楽は、各楽器が独奏から伴奏へと軽やかに役割を変えることはすでに述べたとおり。それゆえに、音楽はひとつの素材を連続的に発展させるというよりは、いくつものブロックの興味深い対比をつくることで全体を組み上げていく。それは保守的な批評家に批判された点であったけれども、そこにこそ新しい管弦楽書法の核心があったわけである。

 

バルトークは《管弦楽のための協奏曲》が再演を重ねるなかで、演奏家たちの要請に応えるかたちで、楽曲の終結部をより華やかに盛り上げるように書き換えた。現在、演奏されるのももっぱらこの改訂版である。しかし、バルトーク自身は、自分の改訂を実際に耳にすることなく、1945年9月26日、ニューヨークの病院で息を引き取った。

 

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