TOP> トピックス

トピックス

2018/12/7

名曲コレクション「第九」特別演奏会プログラムノート

「第九」特別演奏会 公演情報はこちら→

藤田 茂 (音楽学者)

 

年の瀬にはやはり「第9」が聴きたくなる。この音楽はいまや人生の句読点であり、この音楽とともにわたしたちはこれまでを思い、これからを夢見るのだから。若きベートーヴェンは、ハイドンの手を通してモーツァルトの精神を受けよと励まされて、ボンからウィーンに出てきた。そして今日、今度はわれわれがモーツァルト、ベートーヴェンから何かを受け取って、それぞれの人生の次なるステップへと進んでいく。今年一年おつかれさま。そして来年がより良い年でありますように。

 

モーツァルト 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』 K.527 序曲

悲劇のような喜劇、あるいは、喜劇のような悲劇。200年以上前に書かれたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)の音楽がいまでも私たちに何かを訴えかけてくるとするならば、モーツァルトという人間のありかたそのものが喜劇と悲劇のあいだの綱渡りだったからではなかろうか。1787年10月28日にプラハで初演された歌劇『ドン・ジョヴァンニ』は、こうしたモーツァルトの特質がそのまま劇になったかのような作品である。

 

主人公は好色漢のなかの好色漢、女とみれば誰でも口説きにかかるドン・ジョヴァンニ、スペイン風に呼び代えるならドン・ファンである。この歌劇がもともと皇族の結婚式の祝賀用に準備されていたことからわかるように、ドン・ジョヴァンニの物語は(後の道徳がどれほど意義を唱えようと)この漢の巻き起こすドタバタ喜劇に他ならない。しかしこの漢は、単なる女たらしではない。改悛を迫るどのような声にも断固として耳を貸さず、地獄に落ちることが定めならば進んで地獄に落ちるだけの強さをわたしたちに示すのだ。そのとき喜劇は、後のベートーヴェンが好んだ「縛られたプロメテウス」の神話と同じ悲劇性を帯びる。

 

本日、最初に演奏される歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲の始まりは、事実、まったく悲劇的である。そして何の偶然だろうか、ベートーヴェンの『交響曲第9番』と同じニ短調にはじまり、ニ長調へと抜けていくのである。

 

モーツァルトは歌劇『ドン・ジョヴァンニ』全体のなかで、序曲を最後の最後に作曲したことが知られている(初演の1日前だという!)。だからオペラのなかで聞こえてくるモチーフがこの序曲のなかに複数織り込まれているとしても不思議ではない。モーツァルトにしてみれば、これはむしろ「急いでいた」からであって、わたしたちが序曲のモチーフのひとつひとつの意味を深読みしようとしても足をすくわれるだけだろう。それでもこの序曲を歌劇全体の要約として聴くことは、やはり、禁じられてはいないと思うのだ。

 

さて、最後にひとつ。この序曲は本来、最後にヘ長調に転調して音楽がそのまま第1幕に流れ込んでいくように設計されていた。実際のオペラの上演においては、明らかにそのほうがスムーズだ。しかし、モーツァルトは序曲をニ長調ではっきりと終わらせるための別の終結部も作曲しており、演奏会でこの序曲が取り上げられるときには、もっぱらこちらが使われる。

 

ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱つき」

苦悩を突き抜けて歓喜へ!ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)の創作人生がこの言葉に集約されるならば、彼が完成した最後の交響曲「合唱つき」は、その究極の表現だった、とはいえまいか。古くから「死」と関連づけられることの多かったニ短調で静かに始まり、スケルツォ楽章、緩徐楽章を経て、ついにはニ長調による歓喜の大合唱に到る。交響曲第9番がその全体において実現している、この歓喜への上昇は、「ベートーヴェン的なるもの」のもっとも感動的な表現であるばかりでなく、普遍的真理に到達せんとした古典主義の時代精神の理想的な表明でもある。

 

ベートーヴェンが交響曲第9番に着手したのは1818年の春だとされているが、現在のスケッチ研究が明らかにしたところによれば、その作曲に集中的に取り組んだのは、4年以上のブランクを経た後の1822年暮れから1824年の2月中旬まで。つまりベートーヴェンが52歳を過ぎてから54歳を迎える年までの約1年半が、交響曲第9番の実質的な作曲期間であった。これに先行する交響曲第8番が作曲されたのが1812年のことであったから、ベートーヴェンは10年を経て本格的な交響曲創作に没頭したことになる。もちろん、ベートーヴェンは着想から具体的な作品へと至らしめるのにじっくりと時間をかける作曲家であったから、書くという手作業に要した時間は音楽を着想・構想する時間と必ずしも一致しない。だから、最終的に交響曲第9番として実現されるアイデアのいくつかは、実質的な作曲作業が行われるよりもずっと早くにベートーヴェンの心のうちに芽生えていたに違いない。

 

さて、そう考えたときにやはり気になるのが、最後の楽章を合唱によって締めくくるというアイデアがいったいどの時点で生まれたかということだ。交響曲第9番をまさに「合唱つき」とすること、つまり、交響曲の終楽章にフリードリヒ・フォン・シラーの頌詩『歓喜に寄す』の合唱を置くことで純粋器楽としての交響曲の枠組みを飛び越えること。これをベートーヴェンが決意したのは、実際のところ1823年の秋以降だったといわれる。とすると、交響曲第9番が完成されるときより遡って半年以内のことでしかなく、「合唱つき」交響曲への飛躍は、やや唐突な思いつきであった印象を受ける。

 

とはいえ、ベートーヴェンは、シラーの頌詩『歓喜に寄す』を1790年前後、つまり、早ければ10代の後半、おそくとも20代のはじめには知っていた。シラーの友人、フィシェニヒが1793年初めに報告するところによれば、「この青年は偉大なものや崇高なものに夢中になる性格をもっており、シラーの『歓喜に寄す』を全節作曲しようとしており、わたしはそれが完全に作曲されるだろうと期待しています」。もっとも、シラーの頌詩はその後、1803年に改訂されており、ベートーヴェンが交響曲第9番の合唱に用いたのもこの改訂稿である。だとすれば、もし20代で『歓喜に寄す』に作曲していたとしても、その音楽は現在の交響曲第9番の合唱とは別物であったはずだ。しかし、ベートーヴェンが若くして『歓喜に寄す』に夢中になったという事実は、少なくとも次のことを教えてくれる。つまり、交響曲第9番を『歓喜に寄す』の合唱で締めくくるというアイデアは、決して唐突な思いつきではなく、青年時代の理想への立ち返りであったということ。こうした不器用なまでの創作の一貫性、それでこそ可能になる音楽の壮大さ。交響曲第9番の強さの一端がここにある。

 

さて、最初に述べたように、交響曲第9番は「苦悩を突き抜けて歓喜へ!」そのままに、きわめて劇的に構成されている。第1楽章はニ短調によるアレグロ・マ・ノン・トロッポ、ウン・ポーコ・マエストーソ。闘争的なソナタ原理の大規模な実現であり、響きの霧のなかから立ち現われてくる冒頭の主題が音域と楽器を変化させながら、さまざまな障害と闘いつつ全体を編み上げていく。急速な楽章につづく第2楽章には、気分を変える緩徐楽章を置くのが交響曲の慣例だったが、ベートーヴェンは、前の楽章の力を維持するべく同じニ短調によるモルト・ヴィヴァーチェの急速なスケルツォをここに置く。主題的にも第1楽章と共通するところがあり、絶えず前進する流れが強調される。音楽は第3楽章に到ってぐっと速度を落とし、アダージョ・モルト・エ・カンタービレとなる。調も変ロ長調に転調しており、全体のドラマにおける一種の間奏としてここに安らかな時が流れる。そして唐突にニ短調によるプレストの雷鳴がとどろいて、最後の第4楽章に入る。音楽は前の3つの楽章を次々に回想していき、そこから次第にニ長調の歓喜の主題が生まれてくる。まずは器楽に奏でられ、ついに合唱に。その後は、もはや語る必要はあるまい。説明の代わりに次の歌詞を引いておこう。「おまえの神秘的な力がふたたび結びつける/この世の慣わしが厳格に分け隔てていたものを/すべての人々が兄弟となる/おまえのやさしい片翼が、しばしとどまるとき。」連帯の理想が、普遍への意志が、常に高まりゆく音楽にのって謳いあげられる。

 

「第九」特別演奏会 公演情報はこちら→

このページのトップにもどる