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プログラムノート(第348回定期演奏会)
2021-09-03
カテゴリ:読み物
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奥田 佳道(音楽評論家)
ラフマニノフ(1873~1943):ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18
作曲 1900年~1901年
初演 1901年11月モスクワ、作曲者自身のピアノ、アレクサンドル・ジロティ指揮

 ピアノ協奏曲の華を聴く。ロシア音楽の申し子とも言うべき上原彩子の強じんなタッチで味わう。来年デビュー20周年を寿ぐ上原彩子はチャイコフスキー、ラフマニノフの鍵盤芸術と相愛。ほんとうに素晴しいピアニストだ。

 曲は、彼方から響く、ロシア正教会の鐘の音から霊感を受けた(と思われる)厳かな調べで始まる。名匠スヴェトラーノフ、フェドセーエフ、ラザレフ、ゲルギエフがほぼ同じことを言っていた。
「ロシアは嬉しいときも哀しいときも鐘」。
ロシアには「鐘の文化史」という研究のジャンルがあると聞いた。

 かの国の広大な風土や大河を思わせる息の長いメロディラインも、技巧的なパッセージも私たちを魅了してやまない。ロシア正教で育まれた単旋律の聖歌を創作のひとつのベースとしたピアノの巨人ラフマニノフ。晩年になると「グレゴリオ聖歌」の<怒りの日~ディエス・イレ>の旋法も愛でた。

 思わずほほ緩むこのピアノ・コンチェルトは、1900年から1901年にかけて書かれた。まず第2楽章が、続いて第3楽章、最後に第1楽章が作曲される。1900年12月に、第2、第3楽章のお披露目があった。
 その約10年前の1890年夏に、モスクワから南東へ500キロほどのタンボフ州イワノフカ村で6手のための「ワルツ」「ロマンス」(作品番号なし)が作曲された。アルペッジョ(分散和音の一種)も美しいそのロマンスの調べこそ、ピアノ協奏曲第2番第2楽章の源泉と唱えるピアニスト、歴史家も出てきた。
 いまラフマニノフ博物館があるイワノフカ村で、17歳のラフマニノフは親戚筋の偉大なピアニスト、アレクサンドル・ジロティからピアノのレッスンを受けていた。と同時にかの地の3人の良家令嬢と親しくなる。6手のための「ワルツ」「ロマンス」は彼女たちのために書かれた音楽だった。

 ところでピアノ協奏曲第2番は、しばしば次のように解説される。自作の交響曲第1番が酷評され、ショックを受けたラフマニノフは著名な精神科医ニコライ・ダーリ博士の診療により、スランプから脱する。その証としてピアノ協奏曲第2番が作曲された、と。
 たしかに、1897年春にサンクト・ペテルブルクで先輩の作曲家グラズノフ(1865~1936)の指揮で初演された交響曲第1番ニ短調は、ロシア楽壇(力強い仲間=ロシア5人組)の大御所ツェーザリ・キュイ(1835~1918)から酷評された。

 芸術的にも私的にも悩みを抱えていた若き日のラフマニノフが、精神科医ダーリ博士のもとを訪ねたのも確かである。実際、ピアノ協奏曲第2番はダーリ博士に献呈されている。貴族の流れをくむラフマニノフは信義を重んじる性格だった。
 やはり彼はスランプに陥り、籠っていたのか。しかしラフマニノフはオペラ劇場での指揮に活路を見いだし、必ずしも上首尾には運ばなかったようだが、ピアニスト、指揮者としてロンドン・デビューも果たしている。
 交響曲第1番の初演を台無しにした(と伝えられる)グラズノフのことを別に恨んでもいない。1897年の夏に、ラフマニノフはグラズノフの交響曲第6番のピアノ連弾譜を作成しているのだ。
 余談を続ければ、交響曲第1番酷評の背景には、モスクワ派とサンクト・ペテルブルク派の確執もあったようである。モスクワ音楽界の若き騎手ラフマニノフの交響曲第1番は、そもそもサンクト・ペテルブルクの長老たちにとって受け入れ難い音楽だった。
 
 ピアノ協奏曲第2番に戻さねば。烈しくも美しい第1楽章から、かぐわしい第2楽章へ。♭3つのハ短調から#4つのホ長調へという、論理的にはとても遠い調性への移行。しかしラフマニノフは第1楽章最後の音と第2楽章最初の音を同じC(ド音)とし、音階の途中、3小節目で夢幻のホ長調を印象づける。心憎い筆致だ。その後フルート、クラリネットの魅せ場が続く。

 ラフマニノフ芸術のひとつの昇華とも言うべきこのコンチェルトは、後に彼が拠点とするアメリカでも喝采を博す。1909年の晩秋にニューヨークで初演されたピアノ協奏曲第3番二短調とともに「新大陸」の諸都市でセンセーションを巻き起こすのだ。その精妙にして豊麗な管弦楽法は、ウィーンからアメリカに渡った才人エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルト(1897~1957)の音楽とともに、古き良き時代のハリウッドの映画音楽に大きな影響を与えたのだった。

第1楽章:モデラート~アレグロ ハ短調
第2楽章:アダージョ・ソステヌート ホ長調
第3楽章:アレグロ・スケルツァンド ハ短調~ハ長調

ラフマニノフ(1873~1943):交響曲第2番 ホ短調 作品27
作曲 1906年~1907年
初演 1908年1月ペテルブルク(現サンクト・ペテルブルク)、作曲者自身の指揮マリインスキー劇場

 悠久のロシアン・ロマンに抱かれる。
 うねりを帯びた調べも剛毅この上ない響きもホールを満たす。摩訶不思議な郷愁を誘う息の長いメロディ、半音階で移ろう妖しいハーモニーがまた私たちを捉えて離さない。
 そうした楽の音の背景には、ロシア正教の聖歌やグレゴリオ聖歌「怒りの日」を思わせるの旋法も息づく。ラフマニノフ自身は、創作は心の中で聴こえてきた音を自然に表現したもの、と述べている。

 ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして鳴らし、1901年初演のピアノ協奏曲第2番ハ短調で新境地を拓いたラフマニノフは、オペラ指揮者としても活躍。プライヴェートも充実していたが、作曲家として構えの大きなオーケストラ曲を書きたいとの想いも強かったようである。
 年上の盟友グラズノフの指揮により1897年に初演された交響曲第1番で苦い思いを味わったラフマニノフが、このジャンルで成功したいと考えても何ら不思議ではない。

 1903年頃の草稿をもとに、1906年から翌年にかけて作曲された。ペテルブルクの政情不安を避けて滞在していたドイツの古都ドレスデンで多くが書かれたようである。なおペテルブルクでは、1905年1月に「血の日曜日事件」が発生している。後にショスタコーヴィチが交響曲第11番「1905年」(作曲:1957年)で描いた事件だ。

 ラフマニノフの交響曲第2番は1908年の初冬にマリインスキー劇場で初演され、続くモスクワ初演も大好評を博す。ペテルブルクでは名誉あるグリンカ賞の交響曲部門も受賞。モスクワ音楽院の恩師タネーエフに捧げられた。タネーエフはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の演奏史にも欠かせない偉人。作曲家として近年再評価の機運が著しい。

 お気に入りのモティーフ(動機)を執拗に、いや実は論理的に循環・反復させつつ、気宇壮大な楽の音を紡いだラフマニノフがここにいる。いっぽうこの稀代のメロディメーカー(旋律作家)は、スケルツォに相当する第2楽章アレグロ・モルトにも、情趣あふれる歌を添えずにはいられなかった。
 アダージョの第3楽章を彩る、夢見るようなクラリネット・ソロは首席奏者の魅せ場。狭い音域を行き来しつつ、クライマックスへの道を「じらす」筆致も、気高きロマンティスト、ラフマニノフの十八番だ。そして熱きドラマが駆け抜ける第4楽章へ。
 高揚した楽想があたかも螺旋(らせん)を描くかのように昇りつめ、演奏家も聴き手もカタルシスを味わう。そんなコーダ(終結部)の創り、および決然としたエンディングもラフマニノフのお家芸だ。

 19世紀のロシア流儀を受け継ぐラフマニノフの音楽は1909年以降、アメリカへの演奏旅行でも人気を博す。ピアノ協奏曲第3番はニューヨークで初演された。グスタフ・マーラー(1860~1911)指揮ニューヨーク・フィルとの歴史的な共演も実現した。

 交響曲第2番のアメリカ初演は1909年11月、作曲者自身指揮のフィラデルフィア管弦楽団によって行われた。
 長編交響曲ゆえ、1970年代、80年代まで楽想を一部カットしての演奏も多かった。しかし昨今は、繰り返しを行なうかどうかは別として、オリジナルに基づく演奏が殆どである。
 ただしロシアから派生した伝統的な演奏法──たとえば第1楽章の最後にティンパニの一打を加える、あるいは打楽器パートの改変──も存在する。

 コロナ禍の日本のオーケストラに手を差し伸べ、創造の地平を拓くカーチュン・ウォン。いま一番聴きたい指揮者のひとりである。愛してやまないラフマニノフを携え、さあ登場だ。


第1楽章:ラルゴ~アレグロ・モデラート ホ短調
第2楽章:アレグロ・モルト イ短調
第3楽章:アダージョ イ長調
第4楽章:アレグロ・ヴィヴァーチェ ホ長調


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