プログラムノート(第380回定期演奏会)
2025-03-13
カテゴリ:読み物
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奥田 佳道(音楽評論家)
ドヴォルザーク(1841~1904)
交響詩「真昼の魔女」 作品108
交響詩「真昼の魔女」 作品108
作 曲 1896年1月~2月 初 演 1896年6月3日プラハ、ルドルフィヌム、アントニン・ベンネウィツ(またはベネヴィッツ)指揮 プラハ音楽院管弦楽団 公開初演(下記2つが公開初演をうたっている) ・1896年11月21日ロンドン、クイーンズホール、ヘンリー・ウッド指揮クイーンズホール管弦楽団 ・1896年12月20日ウィーン楽友協会、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1896年/1897年シーズン第4回定期公演 |
ファゴットが奏でる空虚5度の和音(ドミソでいえばミのない和音)に導かれ、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラが牧歌的な調べを紡ぎ始める。ベートーヴェンの例の動機を思わせる4音も舞う。オーボエ、弦楽が魅せる。
郷愁を誘う調べも高揚感もお任せあれ。ドヴォルザーク晩年の名交響詩を聴く。
1895年春、赴任先のニューヨークからチェコに帰国し、「新世界より」を自ら指揮するなど旺盛な活動を再開したドヴォルザークは、かねてから関心を寄せていたチェコの詩人エルベンの詩集「民話の花束」に基づく交響詩を4曲書く。
創作順に挙げると「水の精」作品107、「真昼の魔女」作品108、「金の紡ぎ車」作品109、「野ばと」作品110で、いずれ劣らぬ名作揃い。最初の3曲は1896年初春に、「野ばと」は同年晩秋に完成した。
19世紀プラハ文芸界の偉人で歴史学者でもあったカレル・ヤロミール・エルベン(1811~1870)が1853年に発表した12編からなる「民話の花束」は、スラヴ文化圏の民話や伝承をベースとした詩集で、19世紀後半に勃興したチェコの文化復興運動に好ましい影響を与えていた。ドヴォルザークは渡米前からエルベンの詩が好きで、1885年にはカンタータ「幽霊の花嫁」を作曲している。
さて交響詩「真昼の魔女」。チェコ語の原題はPoledniceポレドニツェ。ポレドニツェは真昼に現れ、人間の魂を奪う民話上の魔女、魔物のこと。交響詩の展開を記す。
──穏やかな真昼の情景が描かれる(ファゴット、クラリネット、ヴァイオリン)。食事の準備をしている母親は、聞き分けのない息子を、少々ヒステリックに叱る(オーボエ、弦楽)。この場面は舞曲風のフレーズを交えて繰り返される。
魔女が忍び寄る(バスクラリネットとファゴット)。魔女は息子を要求(ホルンとトランペット)。抵抗する母親。烈しく踊る魔女。“ああイエス様”と叫び、倒れ込む母親。
真昼の鐘がC音(ド)で12回鳴る。何も知らない父親が帰ってきた(ヴァイオリンが付点音符と休符を交えた下降音型を奏で、オーボエが寄り添う)。母親は息を吹き返すも、愛する息子は事切れていた。魔女の動機が烈しく舞う──。
熟達の境地にあったドヴォルザークはエルベンの詩には描かれていない場面(冒頭の真昼の描写、終盤の父親の帰宅)を追加し、4部構成の交響詩とした。エンディングは壮絶だ。演奏時間は14分ほど。
アレグレット~アンダンテ・ソステヌート・モルト・トランクィロ~アレグロ~アンダンテ
郷愁を誘う調べも高揚感もお任せあれ。ドヴォルザーク晩年の名交響詩を聴く。
1895年春、赴任先のニューヨークからチェコに帰国し、「新世界より」を自ら指揮するなど旺盛な活動を再開したドヴォルザークは、かねてから関心を寄せていたチェコの詩人エルベンの詩集「民話の花束」に基づく交響詩を4曲書く。
創作順に挙げると「水の精」作品107、「真昼の魔女」作品108、「金の紡ぎ車」作品109、「野ばと」作品110で、いずれ劣らぬ名作揃い。最初の3曲は1896年初春に、「野ばと」は同年晩秋に完成した。
19世紀プラハ文芸界の偉人で歴史学者でもあったカレル・ヤロミール・エルベン(1811~1870)が1853年に発表した12編からなる「民話の花束」は、スラヴ文化圏の民話や伝承をベースとした詩集で、19世紀後半に勃興したチェコの文化復興運動に好ましい影響を与えていた。ドヴォルザークは渡米前からエルベンの詩が好きで、1885年にはカンタータ「幽霊の花嫁」を作曲している。
さて交響詩「真昼の魔女」。チェコ語の原題はPoledniceポレドニツェ。ポレドニツェは真昼に現れ、人間の魂を奪う民話上の魔女、魔物のこと。交響詩の展開を記す。
──穏やかな真昼の情景が描かれる(ファゴット、クラリネット、ヴァイオリン)。食事の準備をしている母親は、聞き分けのない息子を、少々ヒステリックに叱る(オーボエ、弦楽)。この場面は舞曲風のフレーズを交えて繰り返される。
魔女が忍び寄る(バスクラリネットとファゴット)。魔女は息子を要求(ホルンとトランペット)。抵抗する母親。烈しく踊る魔女。“ああイエス様”と叫び、倒れ込む母親。
真昼の鐘がC音(ド)で12回鳴る。何も知らない父親が帰ってきた(ヴァイオリンが付点音符と休符を交えた下降音型を奏で、オーボエが寄り添う)。母親は息を吹き返すも、愛する息子は事切れていた。魔女の動機が烈しく舞う──。
熟達の境地にあったドヴォルザークはエルベンの詩には描かれていない場面(冒頭の真昼の描写、終盤の父親の帰宅)を追加し、4部構成の交響詩とした。エンディングは壮絶だ。演奏時間は14分ほど。
アレグレット~アンダンテ・ソステヌート・モルト・トランクィロ~アレグロ~アンダンテ
ショパン(1810~1849)
ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11
ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11
作 曲 1830年3月~1830年10月 初 演 1830年10月11日ワルシャワ国民劇場 作曲者自身のピアノ、カルロ・エヴァシオ・ソリバ指揮国民劇場管弦楽団 |
鍵盤の詩人ショパン若き日の肖像を聴く。
ロマンツェ(ロマンス)と題された第2楽章ラルゲットについて、ショパンは友人への手紙に「数えきれないほどの美しい追憶が呼び覚まされる、そんな場所──例えば美しい春の月夜のような──を表現したかった」と記している。
オーケストラの序奏からして趣ある第1楽章、ポーランドの躍動的な民族舞曲クラコヴィアクKrakowiakのリズムに基づく第3楽章も素晴らしい。
この愛すべきコンチェルトは1830年10月、ワルシャワ国民劇場で行なわれたショパンの“壮行コンサート”で初演された。作曲者兼ソリストこのとき20歳。結果としてこれが母国での最後の演奏となる。
ちなみに同年3月にヘ短調 の協奏曲(第2番)を披露しており、こちらはホ短調の協奏曲(第1番)から3年後の1836年に作品21として刊行された。
創作の背景として、早くからショパンの才能を見抜いていた国民劇場の指揮者エルスネルの存在、クルピンスキという劇場支配人のアドヴァイス、それに同級生のソプラノ歌手コンスタンツィア・グワドコフスカとの交友があげられる。彼女を通じてショパンはオペラ好きになった。
いっぽう、古典の様式美と華やかな技巧性をあわせもつフンメル(モーツァルトに学んだオーストリアの作曲家)のピアノ協奏曲第2番イ短調作品85(1816年作曲、1821年出版)から受けた刺激も大きかったと思われる。
ホ短調の協奏曲はショパンにとっても大切な作品で、1832年のパリデビューの際にも弦楽五重奏をバックに弾いている。
第1楽章 アレグロ・マエストーソ ホ短調
第2楽章 ロマンツェ、ラルゲット ホ長調
第3楽章 ロンド、ヴィヴァーチェ ホ長調
ロマンツェ(ロマンス)と題された第2楽章ラルゲットについて、ショパンは友人への手紙に「数えきれないほどの美しい追憶が呼び覚まされる、そんな場所──例えば美しい春の月夜のような──を表現したかった」と記している。
オーケストラの序奏からして趣ある第1楽章、ポーランドの躍動的な民族舞曲クラコヴィアクKrakowiakのリズムに基づく第3楽章も素晴らしい。
この愛すべきコンチェルトは1830年10月、ワルシャワ国民劇場で行なわれたショパンの“壮行コンサート”で初演された。作曲者兼ソリストこのとき20歳。結果としてこれが母国での最後の演奏となる。
ちなみに同年3月にヘ短調 の協奏曲(第2番)を披露しており、こちらはホ短調の協奏曲(第1番)から3年後の1836年に作品21として刊行された。
創作の背景として、早くからショパンの才能を見抜いていた国民劇場の指揮者エルスネルの存在、クルピンスキという劇場支配人のアドヴァイス、それに同級生のソプラノ歌手コンスタンツィア・グワドコフスカとの交友があげられる。彼女を通じてショパンはオペラ好きになった。
いっぽう、古典の様式美と華やかな技巧性をあわせもつフンメル(モーツァルトに学んだオーストリアの作曲家)のピアノ協奏曲第2番イ短調作品85(1816年作曲、1821年出版)から受けた刺激も大きかったと思われる。
ホ短調の協奏曲はショパンにとっても大切な作品で、1832年のパリデビューの際にも弦楽五重奏をバックに弾いている。
第1楽章 アレグロ・マエストーソ ホ短調
第2楽章 ロマンツェ、ラルゲット ホ長調
第3楽章 ロンド、ヴィヴァーチェ ホ長調
ニールセン(1865~1931)
交響曲第6番 FS.116 「素朴な交響曲」
交響曲第6番 FS.116 「素朴な交響曲」
作 曲 1924年8月~1925年12月(中断あり) 初 演 1925年12月11日コペンハーゲン、オッドフェローパレス内コンサートホールでのニールセン60歳 記念ガラコンサート 作曲者自身指揮デンマーク王立管弦楽団 FS.は音楽学者ダン・フォウFogとトーベン・スコウスボーSchousboeが1965年に作成したニール セン作品目録の略称 |
グロッケンシュピール(鉄琴)による4つのD音(レ)に導かれ、管弦が軽やかに、清らかに舞い始める。これが心臓の病を克服し60歳を祝った作曲家が達した境地なのか。第1楽章はソナタ形式。古典的なフォーマットに大胆なフレーズが息づく。
シンフォニア・センプリーチェと題されている。シンプルなシンフォニー、「素朴な交響曲」というタイトルとは裏腹に、巧緻極まる音楽が続く。謎めいた、ときに意表をつく創りに満ちあふれている。
作曲者いわく「最大限、シンプルさを追求した」
この言葉に突っ込みをいれたくなる指揮者、オーケストラ、音楽好きは多いことだろう。
デンマークの国民的な作曲家カール・ニールセン最後の交響曲がプログラムを締めくくる。ちょうど100年前に書かれ、初演された交響曲第6番は、オーケストラでの生活が長かったニールセン芸術の結晶ともいうべき佳品である。
しかし、その音楽は摩訶不思議。どこにどう展開するのか、誤解を恐れずに申せば予測不能だ。いやそれがいい。定石通りに進行する音楽には、関心も興味もない孤高のシンフォニスト(交響曲作家)がここにいる。芸術的な信念を貫いたという意味では、奇しくも同年生れのフィンランドの名匠ジャン・シベリウスと双璧といえる。
ニールセン(ニルスの息子の意)は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの故郷として知られるデンマークのフュン島オーデンセ近くの農村に生れ、軍楽隊のトランペット、コルネット奏者を経て、コペンハーゲンのチボリ公園管弦楽団とデンマーク王立歌劇場管弦楽団のヴァイオリニスト、指揮者を務めた。
その間、ニルス・ゲーゼ(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で活躍、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲初演時の指揮者)並びにヨハン・スヴェンセン(ノルウェーの作曲家、デンマーク王立管弦楽団の楽長)の薫陶を受けている。
ちなみにスヴェンセンは1894年のニールセンの交響曲第1番初演の指揮を買って出ている。そのときニールセン自身も第2ヴァイオリンを弾いた。最初の交響曲を芸術上の恩人が指揮し、自らも演奏に参加する──さぞ誇らしかったことだろう。
交響曲の歩みを記せば、1902年に第2番「4つの気質」、1911年に第3番「ひろがりの交響曲」、1916年に第4番「消し難きもの(不滅)」、1922年に第5番、1925年に第6番「素朴な交響曲」が完成している。第2番から第6番までの交響曲は、ニールセン自身の指揮、デンマーク王立管弦楽団が初演している。1922年1月の交響曲第5番初演後、ニールセンは最初の心臓発作を起こす。
なお交響曲第2番と第3番は近年再評価され、演奏の機会が徐々にではあるが増えてきた。そしてタイトルの訳語はともかく以前から知られているのが第4番。副題を付けずに戦争、戦争後、闘争、対立を描いた第5番もスネアドラム(小太鼓)の響きとともに愛されている。
しかし交響曲第6番は労多くして功少なし、なのか、CDや配信は別として、ライヴではそうそうお目にかかれない。そんな状況に敢然と立ち向かっているのが高関健で、マエストロは東京シティ・フィル定期、藝大フィルハーモニア定期でタクトを執ってきた。十八番なのだ。
管弦楽の編成で目につくのは打楽器パートの拡大。ティンパニのほか、大太鼓、小太鼓、トライアングル、シンバル、シロフォン(木琴)、グロッケンシュピール(鉄琴)を擁する。
この機知に富んだ交響曲、第2楽章はピッコロ、クラリネット、ファゴット、トロンボーン、トライアングル、小太鼓、鉄琴だけ。掛け合いも間合いも遊び心に富み、まさにフモレスケ。真面目な提案と題された第3楽章アダージョの主役は弦楽だ。
そしてオーケストラとは、かくも難しいパッセージを演奏し続けなければならないのか、と聴き手も声を挙げたくなる第4楽章の最後の最後にも、驚きの仕掛けが施されている。ワルツやマーチも乱入する変奏楽章の終わり方にご注目を。
第1楽章 テンポ・ジュスト~レント、マ・ノン・トロッポ~テンポ・プリモ
第2楽章 フモレスケ、アレグレット~レント、マ・ノン・トロッポ~テンポ・プリモ
第3楽章 プロポスタ・セリア(真面目な提案)、アダージョ
第4楽章 主題と変奏、アレグロ~主題 アレグレット・ウン・ポコ、第1変奏~第9変奏~フィナーレ
シンフォニア・センプリーチェと題されている。シンプルなシンフォニー、「素朴な交響曲」というタイトルとは裏腹に、巧緻極まる音楽が続く。謎めいた、ときに意表をつく創りに満ちあふれている。
作曲者いわく「最大限、シンプルさを追求した」
この言葉に突っ込みをいれたくなる指揮者、オーケストラ、音楽好きは多いことだろう。
デンマークの国民的な作曲家カール・ニールセン最後の交響曲がプログラムを締めくくる。ちょうど100年前に書かれ、初演された交響曲第6番は、オーケストラでの生活が長かったニールセン芸術の結晶ともいうべき佳品である。
しかし、その音楽は摩訶不思議。どこにどう展開するのか、誤解を恐れずに申せば予測不能だ。いやそれがいい。定石通りに進行する音楽には、関心も興味もない孤高のシンフォニスト(交響曲作家)がここにいる。芸術的な信念を貫いたという意味では、奇しくも同年生れのフィンランドの名匠ジャン・シベリウスと双璧といえる。
ニールセン(ニルスの息子の意)は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの故郷として知られるデンマークのフュン島オーデンセ近くの農村に生れ、軍楽隊のトランペット、コルネット奏者を経て、コペンハーゲンのチボリ公園管弦楽団とデンマーク王立歌劇場管弦楽団のヴァイオリニスト、指揮者を務めた。
その間、ニルス・ゲーゼ(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で活躍、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲初演時の指揮者)並びにヨハン・スヴェンセン(ノルウェーの作曲家、デンマーク王立管弦楽団の楽長)の薫陶を受けている。
ちなみにスヴェンセンは1894年のニールセンの交響曲第1番初演の指揮を買って出ている。そのときニールセン自身も第2ヴァイオリンを弾いた。最初の交響曲を芸術上の恩人が指揮し、自らも演奏に参加する──さぞ誇らしかったことだろう。
交響曲の歩みを記せば、1902年に第2番「4つの気質」、1911年に第3番「ひろがりの交響曲」、1916年に第4番「消し難きもの(不滅)」、1922年に第5番、1925年に第6番「素朴な交響曲」が完成している。第2番から第6番までの交響曲は、ニールセン自身の指揮、デンマーク王立管弦楽団が初演している。1922年1月の交響曲第5番初演後、ニールセンは最初の心臓発作を起こす。
なお交響曲第2番と第3番は近年再評価され、演奏の機会が徐々にではあるが増えてきた。そしてタイトルの訳語はともかく以前から知られているのが第4番。副題を付けずに戦争、戦争後、闘争、対立を描いた第5番もスネアドラム(小太鼓)の響きとともに愛されている。
しかし交響曲第6番は労多くして功少なし、なのか、CDや配信は別として、ライヴではそうそうお目にかかれない。そんな状況に敢然と立ち向かっているのが高関健で、マエストロは東京シティ・フィル定期、藝大フィルハーモニア定期でタクトを執ってきた。十八番なのだ。
管弦楽の編成で目につくのは打楽器パートの拡大。ティンパニのほか、大太鼓、小太鼓、トライアングル、シンバル、シロフォン(木琴)、グロッケンシュピール(鉄琴)を擁する。
この機知に富んだ交響曲、第2楽章はピッコロ、クラリネット、ファゴット、トロンボーン、トライアングル、小太鼓、鉄琴だけ。掛け合いも間合いも遊び心に富み、まさにフモレスケ。真面目な提案と題された第3楽章アダージョの主役は弦楽だ。
そしてオーケストラとは、かくも難しいパッセージを演奏し続けなければならないのか、と聴き手も声を挙げたくなる第4楽章の最後の最後にも、驚きの仕掛けが施されている。ワルツやマーチも乱入する変奏楽章の終わり方にご注目を。
第1楽章 テンポ・ジュスト~レント、マ・ノン・トロッポ~テンポ・プリモ
第2楽章 フモレスケ、アレグレット~レント、マ・ノン・トロッポ~テンポ・プリモ
第3楽章 プロポスタ・セリア(真面目な提案)、アダージョ
第4楽章 主題と変奏、アレグロ~主題 アレグレット・ウン・ポコ、第1変奏~第9変奏~フィナーレ