プログラムノート(第367回定期演奏会)
2023-10-17
カテゴリ:読み物
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奥田 佳道(音楽評論家)
外山雄三(1931~2023)管弦楽のためのラプソディ
作曲:1960年6月下旬~7月上旬 初演:1960年7月東京都体育館、岩城宏之指揮NHK交響楽団<N響サマーコンサート>のアンコールとして |
1989年から2006年まで仙台フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を務め、仙台国際音楽コンクールの創設、運営にも尽力した外山雄三の「名刺」曲が開演を彩る。外山は今年7月11日、長野県の自宅で召された。1931年(昭和6年)5月生れ、92歳だった。
1956年9月、日比谷公会堂でのNHK交響楽団臨時演奏会で岩城宏之とともに指揮者として正式にデビューした外山雄三は、1958年から1960年6月にかけてウィーン、ザルツブルクに留学する。
1960年1月、ウィーンを訪れたN響事務長/副理事長の有馬大五郎博士から一冊の本を手渡される。野ばら社刊行の「日本民謡集」(1959年改訂版)だった。そのおよそ5ケ月後、有馬の命もあり急きょ帰国し、重要なミッションを授かる。
「秋にN響が行なう世界一周演奏旅行のために、外国人に分かりやすいアンコール・ピースを急ぎ書くように。材料(日本民謡集)は渡してある」。
曲は7月6日に完成した。外山に与えられた創作の時間は一週間ほどだったとの声もある。
最初にタクトを執ったのは作曲者本人ではなく盟友の岩城宏之(1932~2006)。リハーサルで岩城は、和歌山の酒盛り歌<串本節>と信州の馬子歌<追分節>(信濃追分)の間にあった熊本民謡<おてもやん>の部分を削除する。
フルートが祭囃子風に奏でる<串本節>の部分と、やはりフルートがこれぞ日本の節とばかりに連綿と奏でる<追分節>のあいだに、幻となった<おてもやん>の部分があったのだ。岩城は一方的にカットしたのではなく、外山にカットを提案。「それもいいだろう」ということで今の形になった。
7分ほどに縮小された「管弦楽のためのラプソディ」は1960年9月から11月にかけ行なわれたN響世界一周演奏旅行(初日ニューデリー、最終公演ニューヨーク)で公演プログラムの1曲として、またはアンコールとして演奏され、各地で喝采を博す。
自分にも他人にも厳しかった硬派職人外山雄三ならではの明晰な管弦楽法により、「肥後手まり唄」(あんたがたどこさ)、北海道のニシン漁歌「ソーラン節」、福岡の酒盛り歌「炭坑節」、和歌山の「串本節」、「信濃追分」、そして血沸き肉躍る関東の盆踊り歌「八木節」の旋律線や舞曲性が鮮やかに蘇る。
拍子木、団扇(ウチワ)太鼓、締太鼓、チャンチキ(すりがねの一種=金属製)ほか打楽器群の活躍は、あらためて申すまでもない。冒頭では金管管楽器のメンバーも拍子木を叩く。
外山は、リン(鈴)Rinよりも大きなキン(鈞)Kin/Campanelli Giapponese=銅製のお椀型の楽器を使ったことについて「私が生まれた東京、牛込(現在の新宿区神楽坂近く)の家の近くにお寺があり、その記憶があったのかもしれません」と話してくれた。
ハチャトゥリアン(1903~1978)組曲「ヴァレンシアの寡婦」
作 曲:1940年 組曲作曲:1952年 初 演:1940年11月モスクワ、レニンスキー・コムサモール(レーニン共産党青年団)劇場 現愛称はレンコム劇場 組曲初演:1952年、ゲンナジー・カーツ指揮 |
初めて聴いたとしても、どこか、なぜか懐かしい。中央アジア的な情趣、旋法のなせる技だろうか。騎馬民族的な烈しさも異国情緒もたっぷりで、管弦打楽器の見せ場、魅せ場が続く。
しかしブラスバンド好きとオーケストラ好きの間で、この曲ほど人気や知名度に差がある曲も珍しいのではないか。
吹奏楽のコンサートやコンクールで組曲「ヴァレンシアの寡婦」(ヴァレンシアの未亡人、英語タイトルはThe Valencian Widow)の編曲版がそれこそ大ヒット、プログラムを大いに賑わせたのは1990年代半ばだったか。近年の演奏頻度はともかく、吹奏楽界の古典、定番、人気曲となって久しい。
なのに、なぜ、オリジナル!のオーケストラ組曲は、オーケストラやオーケストラ好きのあいだで、それほど話題にならなかったのか。
曲は素晴らしいのに、バレエ音楽「ガヤネー(ガイーヌ)」の剣の舞いやレズギンカ、劇音楽「仮面舞踏会」のワルツのように演奏された形跡は、ない。
でも大丈夫だ。山下一史と仙台フィルが2023年10月の定期演奏会で奏でることによって、組曲「ヴァレンシアの寡婦」受容の状況は変わることだろう。
近年ヴァイオリン協奏曲、そのヴァイオリン協奏曲から育まれたフルート協奏曲(2021年5月の仙台フィル定期で上野星矢が演奏)や、バレエ音楽「スパルタクス」への関心も高まっているアラム・ハチャトゥリアンは1903年、多くの民族が共存していた帝政ロシア時代のグルジア、いまのジョージアに生れたアルメニア人作曲家である。ショスタコーヴィチ、カバレフスキーと同世代。この3人、音楽的な趣味や志向は異なるものの、摩訶不思議な郷愁を誘うワルツや小気味いいギャロップを得意としたという共通項をもつ。
「ヴァレンシアの寡婦」は、16/17世紀スペインの劇作家ロペ・デ・ベガ(1562~1635)の同名戯曲に基づく劇付随音楽である。
美貌の寡婦(未亡人)レオナルダに言い寄るオットーとヴァレリオはお互いの存在を意識しつつ、あれこれ策を巡らせる。けれども、レオナルダが選んだのは全く別の男カミロだった──かなりどうでもいいお話である。劇はともかく、20世紀屈指の旋律「作家」でもあるハチャトゥリアンが紡いだ付随音楽は、コミカルな場面でも愛を語る場面でも(戯曲以上に)素晴らしかったようだ。
ややあって1952年、ソヴィエトでは知られた指揮者ゲンナジー・カーツがハチャトゥリアンにオーケストラ組曲の作成を提案する。劇音楽やバレエ音楽の組曲化に長けた彼は6曲を厳選。「たわいのないラブコメディ」「劇場」という制約が亡くなったことを恐らく喜び、オーケストレーション(管弦楽法)に工夫を凝らしつつ、また曲の順番や展開にも「こだわり」ながら、粋な組曲を創った。なお吹奏楽界ではエリック・ソマーズ編曲版が名高い。
第1曲 序奏 アレグロ 冒頭から管弦打楽器が魅せる。
第2曲 セレナーデ アレグレット セレナーデだが劇的。
第3曲 歌 モデラート クラリネットが愛の調べを奏でる。組曲のひとつの白眉。
第4曲 こっけいな踊り(コミック・ダンス) アレグロ コーカサス舞曲のメドレーのよう。表情豊かな舞いが楽しい。
第5曲 間奏曲 アンダンテ このかぐわしい調べは、自作のバレエ音楽「スパルタクス」にも織り込まれた。
第6曲 踊り アレグロ・モルト 「カルメン」のパロディか!?短調と長調の鮮やかな転換、強弱、拍子の変化もこの作曲家のお家芸。
シベリウス(1865~1957)交響曲第5番 変ホ長調 作品82
作 曲:1914年~1915年 改 訂:1916年、1919年 初稿初演:1915年12月ヘルシンキ 初期改訂稿初演:1916年12月トゥルク 完成稿現行版初演:1919年11月ヘルシンキ 日本初演:1959年4月日比谷公会堂、渡邉曉雄指揮日本フィルハーモニー交響楽団第14回定期演奏会 |
気宇壮大なシンフォニーに抱かれる。曲は、作曲者50歳の誕生日(1915年12月8日)を寿ぐコンサートで4楽章構成の交響曲として発表され、後に3楽章構成に改訂された。
1910年代前半の不穏な世界情勢も影響したのか、構えの大きなオーケストラ曲の創作から遠ざかっていたジャン・シベリウスだったが、1914年6月にアメリカ、コネチカット州のノーフォーク音楽祭で交響詩「大洋の女神」(または波の乙女)作品73を自らのタクトで初演。この交響詩が喝采を博したことにより、創作への意欲を取り戻す。
1915年4月、シベリウスは日記に次のように記した。
「父なる神さまが、天国、天の大空から床のモザイクの破片を投げてくれた。その模様がどんなものかを調べ、(破片を)元通りにして(曲を創って)みなさい。神は私にそう頼んだようです」
10日ほど後の日記にも、とても示唆的な言葉が並ぶ。
「16羽の白鳥を見た。人生最高の出来事。なんと美しいのだ。
白鳥は上空を旋回し、きらめくシルバーのリボンのように太陽の彼方へと飛んでいき、その姿は消えた…」。
(参考文献:新田ユリ著 ポホヨラの調べ 五月書房)
交響曲第5番の最終第3楽章で繰り返されるホルンの跳躍的な響きや木管の調べに、白鳥の舞いが見え隠れする。実際、あのフレーズを「白鳥の讃歌」と呼ぶフィンランド人指揮者も多い。
4楽章形式の交響曲として、1915年暮れにヘルシンキ大学の祝祭ホールで初演され、その形で広まるかに見えたが、自己の芸術に何かと批判的な視座をもつことが多かったシベリウスは改訂に着手する。彼がその時点で理想としていた交響曲の世界は、4楽章構成という伝統的なフォーマットの先にあったのだ。
初稿、すなわち1915年に披露した際の第1楽章と第2楽章をひとつの楽章に編み直し(つまり楽章数をひとつ減らし)、まずは1916年暮れにフィンランドの古都トゥルクで披露。しかしそれにも満足せず、さらに細部に手を施し、1919年にようやく現行の3楽章形式となった。
4楽章構成の交響曲から3楽章構成の交響曲への移行・改訂に際し、木管楽器、金管楽器の筆致はより緊密に有機的になった。いっぽうトータルの小節数は大きく減っている。休符を大胆に交えた、驚がくのエンディングも現行版の美質となる。
第1楽章:テンポ・モルト・モデラート~アレグロ・モデラート
冒頭でホルンと木管楽器が「会話」を交わす。なお初期稿には、あのホルンの「呼びかけ」はなかった。
シベリウスの音楽ではいつも、というべきかもしれないが、大地の鼓動、空間の鳴動をあらわすかのようなティンパニのトレモロが絶妙。
1910年代前半の不穏な世界情勢も影響したのか、構えの大きなオーケストラ曲の創作から遠ざかっていたジャン・シベリウスだったが、1914年6月にアメリカ、コネチカット州のノーフォーク音楽祭で交響詩「大洋の女神」(または波の乙女)作品73を自らのタクトで初演。この交響詩が喝采を博したことにより、創作への意欲を取り戻す。
1915年4月、シベリウスは日記に次のように記した。
「父なる神さまが、天国、天の大空から床のモザイクの破片を投げてくれた。その模様がどんなものかを調べ、(破片を)元通りにして(曲を創って)みなさい。神は私にそう頼んだようです」
10日ほど後の日記にも、とても示唆的な言葉が並ぶ。
「16羽の白鳥を見た。人生最高の出来事。なんと美しいのだ。
白鳥は上空を旋回し、きらめくシルバーのリボンのように太陽の彼方へと飛んでいき、その姿は消えた…」。
(参考文献:新田ユリ著 ポホヨラの調べ 五月書房)
交響曲第5番の最終第3楽章で繰り返されるホルンの跳躍的な響きや木管の調べに、白鳥の舞いが見え隠れする。実際、あのフレーズを「白鳥の讃歌」と呼ぶフィンランド人指揮者も多い。
4楽章形式の交響曲として、1915年暮れにヘルシンキ大学の祝祭ホールで初演され、その形で広まるかに見えたが、自己の芸術に何かと批判的な視座をもつことが多かったシベリウスは改訂に着手する。彼がその時点で理想としていた交響曲の世界は、4楽章構成という伝統的なフォーマットの先にあったのだ。
初稿、すなわち1915年に披露した際の第1楽章と第2楽章をひとつの楽章に編み直し(つまり楽章数をひとつ減らし)、まずは1916年暮れにフィンランドの古都トゥルクで披露。しかしそれにも満足せず、さらに細部に手を施し、1919年にようやく現行の3楽章形式となった。
4楽章構成の交響曲から3楽章構成の交響曲への移行・改訂に際し、木管楽器、金管楽器の筆致はより緊密に有機的になった。いっぽうトータルの小節数は大きく減っている。休符を大胆に交えた、驚がくのエンディングも現行版の美質となる。
第1楽章:テンポ・モルト・モデラート~アレグロ・モデラート
冒頭でホルンと木管楽器が「会話」を交わす。なお初期稿には、あのホルンの「呼びかけ」はなかった。
シベリウスの音楽ではいつも、というべきかもしれないが、大地の鼓動、空間の鳴動をあらわすかのようなティンパニのトレモロが絶妙。
第2楽章:アンダンテ・モッソ、クワジ・アレグレット
変奏曲。木管楽器に導かれ、ヴィオラ、チェロがピッツィカートで主題を奏でる。
第3楽章:アレグロ・モルト~ウン・ポケッティーノ・ラルガメンテ・アッサイ
白鳥の鳴き声を表わす(と言われる)3音の繰り返しが印象的。そして休符を大胆に交えた最後の6音が、内に外に烈しく、胸をうつ。
その部分、シベリウスは楽譜に、ウン・ポケッティーノ・ストレット=ほんの少し緊迫して(せきこんで)、と記した。曲は、変ホ長調の主音(Es、ミの♭)で劇的に、決然と締めくくられる。