本文へ移動
プログラムノート(第359回定期演奏会)
2022-11-14
カテゴリ:読み物
チェック
奥田 佳道(音楽評論家)
ハイドン(1732~1809)交響曲第41番 ハ長調 Hob.Ⅰ,41
作曲 1768年頃
初演 不明

喜ばしい調べが開演を彩る。ウィーン古典派の匠ヨーゼフ・ハイドンが、ハンガリー系の大貴族エステルハージ(エスターハージ)侯爵家に宮仕えしていた時代に紡いだ知られざる逸品で、第2楽章でソリストのように振る舞うフルートの音色、技も私たちを喜ばせる。
 祝祭をイメージしたハイドンの数ある初期ハ長調交響曲のなかで、最も成功した作品を聴く。編成はフルート1、オーボエ2、ファゴット1、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦楽。

 ハイドンは、ウィーンの南東およそ60キロの古都アイゼンシュタット(エステルハージ侯爵家の城下町、現ブルゲンラント州の州都)の居城と、エステルハージ侯爵家が築いた巨大な夏の離宮エステルハーザ(現ハンガリー)に30年ほど滞在し、ここで機知に富んだ、かつクオリティの高い音楽を量産する。

優れた楽団員の技を生かすべく、交響曲の楽章に「協奏曲」のようなフレーズを書いた。休暇を申請したくても出来ない楽団員の胸中を察し(たのか)、演奏中にメンバーが去ってゆく交響曲第45番嬰ヘ短調「告別」を創った。ホ短調という当時の交響曲には極めて珍しい調性で交響曲第44番ホ短調も紡いだ。第44番はブラームスも愛したシンフォニーだ。
「世の中から隔絶された環境に置かれたゆえ、私の音楽は独創的にならざるを得なかった」(ハイドン)

交響曲第41番は謎が謎呼ぶ作品でもある。1760年代から1770年代にかけてのエステルハージ宮廷楽団には常勤のフルート、トランペット、ティンパニ奏者がいなかった。しかしこの交響曲では活躍する。各パートはさてどんな経緯で書かれたのだろうか。
19世紀後半、ウィーン楽友協会古文書資料館の館長を務めたハイドン研究の泰斗カール・フェルディナント・ポール博士(ブラームスにハイドンの主題による変奏曲を書かせた人)の書によれば、夏の離宮エステルハーザには、宮廷楽団の宿舎と軍楽隊の宿舎が向かい合って建ち、トランペット奏者とティンパニ奏者は、必要に応じて宮廷楽団に加わり、エステルハージ家の繁栄を祝う祝賀的なコンサートに参加したという。

第1楽章 アレグロ・コン・スピーリト
第2楽章 ウン・ポコ・アンダンテ
第3楽章 メヌエット
第4楽章 フィナーレ、プレスト
ベルク(1885~1935)ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
作曲 1935年5月~8月
初演 1936年4月19日バルセロナ・カタルーニャ音楽堂 ルイス・クラスナーのヴァイオリン、
   ヘルマン・シェルヘン指揮パウ(パブロ)カザルス管弦楽団 ISCM国際現代音楽協会バルセロナ大会

ききてを夢幻の世界へ、いや魔境へと誘う蠱惑(こわく)的な作品を、今をときめく三浦文彰のソロ、下野竜也指揮の仙台フィルハーモニー管弦楽団で味わう──役者が揃ったというべきだろう。ウィーンゆかりのヴァイオリニストと指揮者が想いを寄せる新ウィーン楽派の巧緻なコンチェルトとは、ほほ緩む選曲だ。

新ウィーン楽派の始祖アルノルト・シェーンベルク(1874~1951)に師事したウィーン生れのアルバン・ベルクは、同門のアントン・ウェーベルン(1883~1945)と交友し、1907年に作曲家としてデビュー。1914年には、後に代表作となるオペラ「ヴォツェック」を書き始める。
第2次大戦後は、師のシェーンベルクが主宰した私的演奏協会の幹部として活躍。ウィーン古典派、ヨハン・シュトラウス2世のオペレッタやワルツ、それにブルックナー、マーラーの交響曲、同時代のフランス音楽を室内楽編成で演奏した。ちなみにベルクはヨハン・シュトラウス2世の「酒・女・歌」を弦楽四重奏、ハルモニウム(足踏みオルガン)、ピアノのために編曲している。新ウィーン楽派の三人は、ウィンナ・ワルツが好きだった。

ヴァイオリン協奏曲に戻せば、1オクターヴ内12の音を均一化した12音技法(12の音を1回ずつ用いた基本音列=セリーの展開)によって創られた近代の逸品であることは論を待たないが、古き良き時代のオーストリア民謡もこだまする。
そしてそして最終第2楽章には、バッハのカンタータの葬送コラールが響く。

曲は、ウクライナに生れ、幼少期にアメリカに渡ったヴァイオリニスト、ルイス・クラスナー(1903~1995)の委嘱によって創られた。
クラスナーはベルクのオペラ「ヴォツェック」、それに「抒情組曲」の大ファンであることを公言していた。1935年春、そんなクラスナーから高額の委嘱料を呈示されたベルクはすぐにでも創作を開始したかったが、オペラ「ルル」の創作が佳境を迎えていたこともあり、協奏曲は構想段階で止まっていたようである。ベルクはクラスナーに宛て、こう書く。
「5月には、ブラームスがヴァイオリン協奏曲を作曲したヴェルター湖畔ペルチャッハの近くで、私たちのヴァイオリン協奏曲の作曲を始めるつもりです。その折には、たくさんお会いしましょう」(1935年3月28日)

 しかし1935年4月、ベルクの心を烈しく揺さぶる悲劇が発生する。ベルク夫妻が可愛がっていた令嬢マノン・グロピウス(1916~1935)がポリオを患い、18歳で亡くなったのだ。マノンは、グスタフ・マーラー(1860~1911)の妻だったアルマ・マーラー(1879~1964)と建築家ワルター・グロピウス(1883~1969)の娘である。
 「天使」になったマノンにヴァイオリン協奏曲を捧げるべく、ベルクは創作に勤しむ。第1楽章の後半に、オーストリア南部ケルンテン地方の民謡「すももの木に鳥が一羽」を、そして第2楽章のアダージョ部に1723年にライプツィヒで初演されたバッハのカンタータ第60番「おお永遠、そは雷の言葉」の終曲「満ちたれり、主よ、私を解放して下さい」を引用した。もちろん12音技法の使徒ベルク一流の凝った筆致によって。また、彼の人生を彩った女性も創作の源泉となったようである。

   1935年8月11日、「ある天使の思い出に」(独語Dem Andenken eines Engels、英語To the memory of an angel)に捧げられたヴァイオリン協奏曲の総譜が脱稿する。しかし同年12月24日、敗血症にかかったベルク自身も急逝し、図らずも彼へのレクイエムとなった。ベルク芸術の昇華。清らかな響きに抱かれたいものである。

第1楽章 アンダンテ~アレグレット 
第2楽章 アレグロ~アダージョ
モーツァルト(1885~1935)交響曲第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」
作曲 1788年8月10日(自筆作品主題目録への記入日)
初演 不明

再びハ長調を基調とし、ヘ長調の緩徐楽章をもつシンフォニーの世界へ。格調高く、優美。第4楽章には奇蹟のフーガも舞う。
編成はフルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ、弦5部で、ハイドンの第41番ハ長調と同じではないが通じるものがある。

モーツァルト最後のシンフォニーを聴く。最後と言っても完成したのは1788年の晩夏で、彼のオーケストラ曲の創作がここで終わった訳ではない。
1788年の6月から8月にかけて、32歳のモーツァルトは交響曲第39番変ホ長調K.543、交響曲第40番ト短調K.550、交響曲第41番ハ長調「ジュピター」を書く。
3部作と見なせるこれらのシンフォニー。創作の背景、目的、初演の日時は、例によってというべきか、分かっていない。新作を披露する秋冬の予約演奏会のメイン候補だった? そうではなく、ロンドンやドイツ語圏大都市への演奏旅行を意識し、その手土産として書いた可能性も棄て切れない。ちなみに近年、第40番ト短調に関しては、モーツァルトにバロック音楽、とりわけフーガの技法を授けたヴァン・スヴィーテン男爵の邸宅で演奏された、との文献が出た。
3大交響曲に戻せば、1780年代後半に楽譜が出版されたハイドンの交響曲第82番ハ長調「熊」、第83番ト短調「めんどり」、第84番変ホ長調──いわゆるパリ交響曲の最初の3曲──から何らかの刺激を受けたか。ハイドンの調性にご注目を。

愛称の「ジュピター」はローマの全能神ユピテル、ギリシャの最高神ゼウスに由来するが、残念ながらこのネーミングにモーツァルトは関与していない。
名づけ親は、ハイドンをロンドンに呼んだ興行主で、ヴァイオリニスト、指揮者でもあったドイツ人ヨハン・ペーター・ザロモン(1745~1815)とされる。
いっぽう愛称を広めたのは、ロンドンでピアノ連弾譜の作成、ピアノ製造、楽譜出版に携わっていたイタリア人作曲家クレメンティ(1752~1832)で、1820年代前半に「ジュピター」と題されたピアノ連弾譜が刊行されている。

第1楽章の第2主題は、モーツァルトがアンフォッシ(1727~97)のオペラ「幸せな嫉妬」のために書いたアリア<手にキスすれば>K.541の旋律に基づく。「幸せな嫉妬」が1788年6月にウィーンで上演された際、モーツァルトは出演歌手のひとり(同年5月にドン・ジョヴァンニを歌ったバリトン歌手)に、アリアをプレゼントしたのだった。18世紀中葉、アリアの差し替えは割合普通に行われていた。その旋律が交響曲に顔を出す。

第4楽章の冒頭は、名高い<ド・レ・ファ・ミ>(C-D-F-E)音型で、ジュピター・モティーフとも言われる。グレゴリオ聖歌を起源とするこのモティーフは、バロック期から古典派の多くの作曲家を魅了した。
モーツァルトも8歳の時に書いた交響曲第1番変ホ長調K.16の第2楽章、いくつかのミサ曲、交響曲第33番変ロ長調K.319、ヴァイオリン・ソナタ第41番変ホ長調K.481に、この4音を織り込んだ。フィナーレ楽章の<ド・レ・ファ・ミ>音型は、モーツァルトの勝負モティーフなのだ。
「ジュピター」と1791年に創られる「魔笛」K.620の幕切れの音型に共通性があるのも興味を誘う。さらに…ハイドンが1792年春にロンドンで発表した交響曲第98番変ロ長調との「関連」を指摘する向きも出てきた。ハイドンは「ジュピター」を知っていたのか…。

第1楽章:アレグロ・ヴィヴァーチェ
第2楽章:アンダンテ・カンタービレ
第3楽章:メヌエット、アレグレット
第4楽章:モルト・アレグロ
TOPへ戻る