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プログラムノート(第358回定期演奏会)
2022-09-30
カテゴリ:読み物
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奥田 佳道(音楽評論家)
ドヴォルザーク(1841~1904)チェロ協奏曲 ロ短調 作品104
作曲 1894年~1895年
初演 1896年3月ロンドン、クイーンズホール
   レオ・スターンのチェロ、作曲者自身指揮のフィルハーモニック協会管弦楽団

王者の風格を誇るチェロ協奏曲を、今をときめく佐藤晴真のソロで聴く。求心的な音楽観と妙技。この上なく素晴らしいチェリストだ。

ドヴォルザークの晩年と創作の背景に想いを寄せたい。
大英帝国の首都ロンドンでも人気を博していたチェコ(正確には同国中西部ボヘミア)の名匠アントニーン・ドヴォルザークが、破格の待遇でニューヨークの私立ナショナル音楽院の院長に招かれたのは1892年秋のこと。ドヴォルザークこのとき51歳。提示された年俸15000ドルは当時のプラハ音楽院教授職の20倍以上だったとか。夏休みもたっぷりあり、チェコへの帰省も認められていた。
待遇はともかく、なぜアメリカへ。
その7年前の1885年にナショナル音楽院を創設したジャネット・マイヤーズ・サーバー(1850~1946)の熱心なリクエストに応じての赴任だった。
ジャネット・サーバーは、ドヴォルザークのヨーロッパにおける知名度、およびボヘミア/チェコの舞曲や民謡を愛でる国民楽派的な創作態度に関心を抱いていたのだった。この著名人ならば、ことクラシック音楽に関しては後発国だったアメリカの作曲界・演奏界を、ドイツ、イタリア系の音楽家とは別の視座で活性化させてくれるかも知れないと。

若き日から哀しくも美しい調べを紡いできたドヴォルザークは赴任先で見聞きした黒人霊歌、ネイティヴ・アメリカンの舞曲、それに5音音階や自然短音階を基にしたアメリカ民謡に興味を抱く。母国チェコの舞曲、民謡との摩訶不思議な近似性に驚いたと言うべきか。
たとえば、付点音符を交えた長・短・短・長のリズム。このドヴォルザーク好みのリズム(チェロ協奏曲の第1楽章もこのリズムに基づく)は、19世紀末のアメリカ民謡にも顔を出す。

チェリストにとっても音楽ファンにとっても大切なドヴォルザークのチェロ協奏曲は、同郷の歴史的なチェリストで、プラハ音楽院のかつての同僚でもあったハヌシュ・ヴィハン(1855~1920)の依頼に応じる形で1894年から翌年にかけて書かれた。
かねてから構想を温めていたようだが、1894年3月にアントン・ザイドル指揮ニューヨーク・フィルによって初演されたヴィクター・ハーバート(1859~1924)のチェロ協奏曲第2番ホ短調の成功を知り、刺激を受けたようである。アイルランド出身のチェリスト、ハーバートもサーバー夫人の招きでナショナル音楽院の教授を務めていた。この人、ドイツで活躍後ソプラノ歌手の夫人と渡米し、メトロポリタン・オペラのオーケストラでも要職を担った。
ハーバートのチェロ協奏曲第2番を初演した指揮者とオーケストラ、それにホ短調という調性から何かが見えてこないだろうか。アントン・ザイドルとニューヨーク・フィルは1893年暮れにドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調「新世界より」を初演している。古き良き時代のニューヨークは歴史的な音楽家が行き交う街だった。

チェロ協奏曲の創作が佳境を迎えた頃、ドヴォルザークは自作「4つの歌曲」の第1曲<私をひとりにして(私にかまわないで)>のメロディの引用を思いつく。第2楽章の中ほどを彩る、烈しくも哀しいト短調の調べ。かつて想いを寄せた女性ヨゼフィーナ・チェルマーコヴァーが好きだった歌曲の調べだ。伯爵夫人となったヨゼフィーナはドヴォルザーク夫人の姉で、闘病の末、1895年の陽春に召された。
チェコへの一時帰国中にその知らせを聞いたドヴォルザークは、第3楽章の終わりにも同歌曲のひと節を添え、コーダ(終結部)にも手を施す。動機や旋律の循環的な書法を好む作曲家の姿も浮かぶ。しかしヴィハンは歌曲の引用を含むこの最終改訂に異を唱え、盟友ドヴォルザークと少々気まずい関係に陥った。

曲は1896年3月にロンドンで初演された。作曲者自身の指揮で弾いたのはイギリスのレオ・スターン。多忙を理由に初演を辞退したとも伝えられるヴィハンは、しかしチェコ初演で弾き、その後は普及に努める。喧嘩もしたが曲の最大の理解者だった。

第1楽章 アレグロ
第2楽章 アダージョ・マ・ノン・トロッポ
第3楽章 アレグロ・モデラート
シューマン(1810~1856)交響曲第3番 変ホ長調 作品97 「ライン」
作曲 1850年11月~12月 校訂 1851年3月、1851年7月~8月
初演 1851年2月6日デュッセルドルフ、作曲者自身指揮の デュッセルドルフ市立管弦楽団

冒頭から快活だ。そして揺れ動く。音楽への内なる尽きせぬ想いが、ついに溢れ出たかのよう。
4分の3拍子だが、すぐには4分の3拍子に聴こえない。拍節感を「ずらす」作曲法は、ドイツ・ロマン派の化身シューマンのお家芸である。

1850年9月、40歳のロベルト・シューマンは妻のクララ(1819~1896)とともに、革命の余波が漂うザクセンの古都ドレスデンを離れ、ライン河畔のデュッセルドルフに引っ越す。
デュッセルドルフ市の音楽監督という名誉あるポストに迎えられ、オーケストラとコーラスを指揮・指導する日々が始まった。
かの地のオーケストラは、歌劇場管弦楽団のメンバー、地元のディレッタント(優秀なアマチュア演奏家)、それにプロシア連隊軍楽隊のメンバーによって構成されていた。シューマンは、軍楽隊メンバーが所持していた最新モデルの金管楽器、具体的にはヴァルヴ式ホルン、ヴァルヴ付きトランペットの壮麗な響き、制約のない音域に注目する。

1850年11月、心技体いずれも充実していたシューマンは、しばらくぶりに交響曲を書き始める。
それが全5楽章から成る壮大な交響曲第3番で、同年の暮れにはおおむね完成した。最後(四番目)に創られた交響曲だが、二番目の交響曲ニ短調(1841年作曲)が改訂され第4番(1853年初演、1854年出版)となったため、最終的に交響曲第3番となった。

「ラインの地で大きな作品が生まれそうです。この街での生活を少しずつ反映した交響曲を(書いたのですが、それを)出版することが出来れば嬉しいです」。
デュッセルドルフの名士となったシューマンは1851年3月、ボンの音楽出版業者ジムロックに宛て、曲の早期出版を促している。
前任地ドレスデンで萎えてしまっていた創造へのエネルギーが、ライン河畔の多忙な音楽生活のなかで蘇り、高まってきたことを示す文面だ。1850年にはチェロ協奏曲イ短調も生まれている。

1841年作曲の交響曲第1番変ロ長調「春」、1846年に完成した交響曲第2番ハ長調各初演のタクトを執ったのは、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長メンデルスゾーンだった。交響曲第3番「ライン」は前掲データのように1851年2月、シューマン自身の指揮により、デュッセルドルフで初演。同年10月に総譜とパート譜が刊行された。

「ライン」という完璧な副題は、シューマンが亡くなった後につけられた。名づけ親は、シューマンやメンデルスゾーンがかねてから高く評価していたヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヴァジエレフスキ(1822~1896)というデュッセルドルフ市管弦楽団のコンサートマスターである。
ゲヴァントハウス管弦楽団を経てデュッセルドルフで弾くようになったポーランド系のヴァイオリニスト、ヴァジエレフスキは、指揮者、音楽学者、伝記作家としても歴史に名を刻む。
シューマンは彼に「デュッセルドルフ市民の幸せな感情がこの交響曲に反映されていなければなりません」と述べた。

五線譜に♭記号3つの変ホ長調を基調とする。ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」と同じ調にして、ホルンの響きが生きる調だ。序奏なく劇的に始まる第1楽章、4分の3拍子、変ホ長調。「英雄」と「ライン」は何もかも異なる音楽だが、時空を超えた共通項をもつ。ホルン、変ホ長調と言えば、ワーグナーの「ラインの黄金」(1854年完成、1869年初演)の冒頭を脳裏に響かせる方もいらっしゃるのでは。

全5楽章、いずれも素晴らしい。管弦楽の筆致は凝っている。たとえば第2楽章。4分の3拍子、スケルツォと記されているが、私たちが漠然と思い描く劇的で歯切れのいいスケルツォ楽章ではない。音の詩人シューマンは「きわめておだやかに」と書き込んだ。ライン河畔の街に暮らす人々の憩い、週末や季節のいい時期の散策をイメージしたのだろうか。あるいは、河の比較的ゆったりとした流れ、水面の微妙な揺らぎ、そよぐ風から霊感を受けたのかも知れない。
ドイツ・ロマン派の作曲家が愛や夢を紡ぐ際に好んだ変イ長調(♭記号4つ)で書かれた第3楽章も秀逸。弦楽と木管の親密な会話に抱かれる。
第4楽章について、シューマンは自筆譜に「荘厳な儀式を伴奏する性格で」と記すも、後にこの文言を削除する。かつては、ケルン大聖堂でのおごそかな儀式から感銘を受けた音楽と解説されることが多かった。史実として1850年9月、ライン河畔のケルン大聖堂で大司教ヨハネス・フォン・ガイセルの枢機卿昇任式が執り行われたが、「ライン」との関係はさて。トロンボーンがこの楽章から登場する。
第5楽章は再び生き生きと。音楽、人生に感謝する調べが舞う。キーワードは躍動、祝祭で、コーダでは第1楽章の動機も回帰する。

名交響曲「ライン」(英Rheinish、独Rheinische)を、ドイツ・ロマン派の調べと相愛の名匠、飯守泰次郎の滋味あふれるタクトで味わう。マエストロとライヴの喜びを分かち合う仙台フィル。ステージと客席の交歓が目に浮かぶ。

第1楽章:生き生きと(以下表記はドイツ語) 変ホ長調
第2楽章:スケルツォ、きわめておだやかに ハ長調
第3楽章:速くなく 変イ長調
第4楽章:おごそかに 変ホ長調(変ホ短調)
第5楽章:生き生きと 変ホ長調
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