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プログラムノート(第354回定期演奏会)
2022-04-11
カテゴリ:読み物
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奥田 佳道(音楽評論家)
バックス(1883~1953):交響詩「ティンタジェル」
作曲 1917年~1919年
初演 1921年10月20日ボーンマス、
   ダン・ゴドフリー指揮ボーンマス市管弦楽団(現在のボーンマス交響楽団)

Very moderate Tempoと記された冒頭から、自然界の神秘や中世を映し出す調べが舞う。
ティンタジェルとは、英グレートブリテン島南西端コーンウォールの荒海を見下ろす、高い崖の突端に建っていた古城の名前。古城と言っても最後に築城されたのは1233年頃で、今は城門跡などがかろうじて残っている廃墟だ。
そしてティンタジェル城と言えば、伝説のアーサー王誕生の地とされる。ケルト海(大西洋)を見下ろすイギリス屈指の奇勝にして人気のパワースポットでもある。アーサー王と円卓の騎士の物語は聖職者ジェフリー・オブ・モンマスが1136年に著した「ブリタニア列王伝」に基づく。史実かどうかは重要ではない。
もうひとつ。イギリス南西端コーンウォール沿岸と言えば、ワグネリアン(ワーグナー芸術の熱心なファン)も胸ときめく。楽劇「トリスタンとイゾルデ」の舞台だ。トリスタンはコーンウォールの騎士である。

イギリスの作曲家サー・アーノルド・エドワード・トレヴァー・バックスは1917年の夏、同国の多くの作曲家から信頼を得ていたピアニストで愛人のハリエット・コーエン(1895~1967)を伴い、コーンウォール地方を一か月半ほど旅した。
フランツ・リストやリヒャルト・シュトラウスの気宇壮大な音楽語法を会得した才人バックスは、アイルランドの劇作家イェイツのアイルランド民話集「ケルトの薄明」(1893)にも傾倒していた。実はバックスのルーツはケルト文化が息づくアイルランドにあった。
それでワーグナーに通じる流麗な半音階語法やドビュッシーも愛した全音音階を巧みに用い、幻想的な音楽を紡ぐ。実際交響詩「ティンタジェル」には「トリスタンとイゾルデ」やドビュッシーの「海」の動機もこだまする。
イベール(1890~1962):アルトサクソフォンと11の楽器のための室内小協奏曲
作曲 1935年
初演 1935年5月2日フランス公共放送(ラジオ)、マルセル・ミュールのソロ、
   1935年12月11日スイス、ヴィンタートゥール(公演)、シーグルト・ラッシャーのソロ

明晰でリズミカルな楽の音がホールを満たす。この楽器のプレイヤーや受験生にとっては、コンクールや試験でもおなじみだ。多くはアルトサクソフォンとピアノで演奏される。
パリ音楽院で学び、ローマ大賞を得てイタリアに留学、ローマ滞在中の1922年に代表作のひとつ交響的組曲「寄港地」を書いたジャック・イベール。洒脱な調べ、南欧風の色彩感が身上で、1930年代前半に書き上げたフルート協奏曲は、モーツァルトの協奏曲と並び称される逸品だ。
1935年に手掛けた初のサクソフォン曲である「アルトサクソフォンと11の楽器のための室内小協奏曲」も素晴らしい。この楽器のバイブルともいうべき巧緻な名曲だ。
曲は、ドイツ系アメリカ人のサクソフォン奏者で、フラジオレット音域の拡大や特殊奏法の開拓でも知られるシーグルト(シーガード)・マンフレッド・ラッシャー(1907~2001)のために書かれた。1933年のストラスブール現代音楽祭でラッシャーの妙技を聴いたソプラノ歌手が、友人のイベールに「ラッシャーのために新曲を書くように」と依頼したようである。
それまでサクソフォン曲を書いたことがなかったイベールは、クラシカル・サクソフォンのle patron(主、父)と呼ばれていた名手マルセル・ミュール(1901~2001)にアドヴァイスを受けつつ創作に勤しむ。ミュールは試演も行なった。
編成は、アルトサクソフォン独奏、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス。
第1楽章 アレグロ・コン・モト
第2楽章 ラルゲット~アニマート・モルト
 
サクソフォンの独白に始まる序奏と、軽やかなイベール節満開のロンド主題から成る。
トマジ(1901~1971):アルトサクソフォンのための「バラード」
作曲 1938年
初演 1939年3月25日フランス、ナント マルセル・ミュールの独奏、マルク・ヴーボルゴアンの指揮

港町マルセイユに生れ、パリ音楽院で学び、ローマ大賞を受賞したアンリ・トマジ。優れた指揮者でもあったトマジもサクソフォンに尽くした作曲家である。
両親がコルシカ島出身だったこともあり、創作の源泉に地中海の景色や匂いがあるらしく「地中海の光と色は私の喜びであり、音楽は心から沸き起こるものである。私はメロディを愛するメロディストである」と述べている。
さらに創作の源泉として、イングランドの古謡、スコットランドやアイルランド発祥の舞曲ジーグ(はしゃぐ、が語源)、ジャズのブルースを挙げてもいい。
実は今挙げた要素がサクソフォンのための逸品「バラード」の根幹を成す。さらに季節や人生の黄昏、はかなく消えゆく美といった言葉も入れたくなる。
曲は、トマジの妻スザンヌ・マラールの4節の叙情詩「イギリスの道化師の物語」から自由な霊感を受けて書かれた。ためらいがちに響くサクソフォンが、ひとりの道化師に寄り添い、彼の苦悩と絶望を和らげ、立ち直させる──。
イギリス古謡に基づくアンダンティーノ、躍動的な舞曲ジーグ、道化師の悲哀を表わすブルースから成る。ジーグにも味わい深い調べが寄り添い、ブルースにも劇的なドラマがある。最後はジーグの再現だ。
ムソルグスキー(1839~1881)/ラヴェル(1875~1937)編曲:組曲「展覧会の絵」
作曲 1874年(ピアノ組曲として)、1922年(オーケストラ組曲として)
初演 1922年10月19日パリ・オペラ座、セルゲイ・クーセヴィツキー指揮

これぞオーケストラの喜び。壮麗な響きに抱かれる。
ソロの妙技は申すに及ばず、管弦打楽器の各パートが醸す音色の変幻が私たちを捉えて離さない。妖しくも美しい調べの数々。摩訶不思議な郷愁も詩情も舞う。
英仏や古城、伝説、バラード(小叙事詩)、サクソフォンを仲立ちとした今回の仙台フィル定期では、物憂げな「古城」がいつも以上に印象的に聴こえてくるはずだ。我らがマエストロ角田鋼亮は選曲からして魅せる。
ロシア国民楽派の異才モデスト・ムソルグスキーのピアノ組曲「展覧会の絵」は、オリジナルで聴いても、ラヴェルによるオーケストラ編曲で体感しても素晴らしい。
豪胆な音楽観を身上としたムソルグスキーは、友人の建築家でデザイナーでもあったヴィクトル・ガルトマン(1834~1873)の回顧展から芸術的霊感を受けて「展覧会の絵」を書く。ガルトマンはハルトマンとも表記される。
ガルトマンの絵を「ピアノの音色で描いた」わけだが、実は曲の半分は展覧会の絵ではなく、作曲家の空想、つまり自由なイメージから創られている。やはりムソルグスキーは鬼才だった。想像力も創造性も桁外れだった。

いっぽう、絵画から絵画への移動──展覧会の会場を歩く様──を、ある種の示導動機ともいうべきプロムナード(散歩道)で示し、組曲の前半では、このプロムナードが愛すべき間奏曲の役割を果たす。
組曲「展覧会の絵」は、もとよりオーケストラの色彩を内包していた。そもそもムソルグスキーのピアノ曲は、オーケストラ作品への前段階だったのでは、との指摘も多い。それゆえに、かなり早くから管弦楽への編曲がなされた。
オーケストレーション(管弦楽法)の匠モーリス・ラヴェルに編曲を依頼したのは、ロシアの芸術とパリの華やかな音楽界を結びつけた歴史的なロシア人指揮者セルゲイ・クーセヴィツキー(1874~1951)である。
実はクーセヴィツキーの依頼前からムソルグスキーの音楽に関心を抱いていたラヴェルは、リムスキー=コルサコフ校訂のピアノ組曲「展覧会の絵」をもとにオーケストラ組曲を完成させる。曲は1922年に初演され、ただちにラヴェルの人気曲となった。

ちなみに、後にボストン交響楽団の音楽監督に就任するクーセヴィツキーは、初演からしばらくの間、このオーケストラ組曲の独占指揮権を持っていた。委嘱者の特権だ。
そうした事情も手伝い、ラヴェル以外にもたくさんの編曲が存在する。録音ではセルゲイ・ゴルチャコフ(1905~1976)版が知られる。時々演奏されるのはレオポルド・ストコフスキー(1882~1977)版だ。
今回はおなじみのラヴェル編曲で楽しむ。
プロムナード
「こびと(グノームまたはノーム)」
 ヨーロッパの伝説に登場する小人妖怪、精霊。
プロムナード 
「古城」
 アルトサクソフォンがノスタルジックなセレナードを奏でる。リズムはシチリアーノだ。
プロムナード 
「テュイルリーの庭、遊んだ後の子どもたちの喧嘩」
「ビドロ(ブィドウォ)」 
ポーランド語では牛車または牛舎、ロシア語では苦役または苦役にあえぐ民衆。
プロムナード 
「卵の殻をつけたひなの踊り(卵の殻をつけたひよこのバレエ)」
「ザミュエル・ゴールデンベルグとシュムイレ」
 裕福なユダヤ人と貧しいユダヤ人。
「リモージュの市場」 朝市で言い争う女たち。
「カタコンブ」
 ローマ時代の墓地。
「死者たちとともに、死せる言葉で」 プロムナードに基づく変奏曲。
「バーバ・ヤガーの小屋」 にわとりの足の上に建つバーバ・ヤガーの小屋。老婆バーバ・ヤガーはロシアの有名な妖怪。
「キエフの大門」 古都キエフを描く。正教の聖歌「汝がキリストの洗礼を受けたとき」に導かれ、大聖堂の鐘が、プロムナードの調べが壮大に響く。
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