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プログラムノート(第350回定期演奏会)
2021-11-15
カテゴリ:読み物
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奥田 佳道(音楽評論家)
メンデルスゾーン(1809~1847):劇音楽「真夏の夜の夢」序曲 作品21
作曲 1826年7~8月、ベルリン
公開初演 1827年2月シュテッティン(現ポーランドのシュチェチン、ドイツ国境の古都)

木管楽器のハーモニーに導かれ、メルヘンの世界へ。妖精の悪戯、戯れを映し出す弦の細やかな動きが感興を誘う。低音の支えを生かしたベルガマスク風の舞曲も楽しい。
芸術的に恵まれた環境で育ったメンデルスゾーンは1826年、17歳の年にシェイクスピア(1564~1616)の戯曲「真夏の夜の夢」をドイツ語訳で読み、大いに感銘を受けた。
それで連弾曲を書く。優れたピアニストで作曲家でもあった姉ファニー(1805~1847)と弾くためだ。曲はほどなくオーケストラに編曲され、ベルリンのメンデルスゾーン邸恒例!の日曜コンサートで私的に初演された。古都シュテッティンでの公開初演も好評で、パリ、ロンドンでも喝采に包まれたようである。
曲は後のプロシャ王、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(1795~1861)に献呈された。17年後の1842年、メンデルスゾーンは、そのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の命により、スケルツォ、間奏曲、ノクターン(夜想曲)、「結婚行進曲」などを含む劇付随音楽を作曲する。
モーツァルト(1756~1791):ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 K.216
作曲 1775年9月、ザルツブルク
初演 不明

晴れやかな前奏がヴァイオリンへの期待を高める。仙台国際音楽コンクールから羽ばたき、ソロはもちろんのこと、カルテット・アマービレでも活躍中の北田千尋で聴くモーツァルト。思わずほほ緩むコンチェルトだ。

1775年の夏から暮れにかけて、19歳のモーツァルトは故郷ザルツブルクで4つのヴァイオリン協奏曲を書く。2年前の前作(第1番変ロ長調K.207)とは趣の異なる第2番ニ長調K.211、第3番ト長調K.216、軍隊行進調の楽想も舞う第4番ニ長調K.218、それに「トルコ風」の愛称で知られる第5番イ長調K.219で、いずれもヴァイオリニスト必携の名作である。
とくに第3番、第4番、第5番の3曲は、子どもの頃に弾いた思い出の曲にして、コンクールの予選や各種オーディションの定番曲でもある。定番という表現は好ましくない。バッハの無伴奏曲やベートーヴェンの諸作品同様、生涯をかけて弾くレパートリーと言える。
モーツァルトは、息子の才能に目を細めるステージ・パパで厳しいヴァイオリン教師でもあった父レオポルト・モーツァルト(1719~1787)のもとでヴァイオリンを学んだ。教育熱心なレオポルトは、ウォルフガングをヨーロッパ各地の貴族や有力者に売り込むことも忘れなかった。数々の遠征がそれを証明している。この親子はドイツ各地、ウィーン、パリのみならず、アムステルダムやナポリまで旅している。ロンドンにも渡り、ジョージ3世の王妃シャーロット・ソフィアの音楽教師をつとめていたバッハの末の息子ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735~1782)とも出逢った。

さてモーツァルトは、自分で弾くためにこのコンチェルトを作曲したのだろうか。
あるいは19歳年上の親友ミヒャエル・ハイドン(1737~1806 ヨーゼフ・ハイドンの5歳下の弟)へのプレゼントだったか。
少し前までは、大司教のもとで演奏活動を行なったザルツブルク宮廷楽団のイタリア人コンサートマスター、アントニオ・ブルネッティ(1744~1786)のために書かれた、と解説されることが多かった。
ブルネッティがモーツァルトのヴァイオリン協奏曲を弾いた可能性は高い。けれども、彼のザルツブルク着任は一連の協奏曲誕生よりも後なので、委嘱や初演に関わったわけではない。
心躍るヴァイオリン協奏曲第3番第1楽章の主題は、1775年春に初演された歌劇「羊飼いの王、イル・レ・パストーレ」の主役アミンタのアリア“穏やかな空気よ”から採られた。モーツァルトのコンチェルトは、楽器が何であれ、オペラの世界と相愛だ。ソロとオーケストラは会話も交わせば、ダンスも踊る。愛や夢も語り合う。
幻想的な第2楽章のみを彩るフルートの音色に抱かれる。モーツァルト時代のザルツブルク宮廷では、オーボエ奏者がフルートに楽器を持ち替えて演奏した。ゆえに第2楽章にオーボエは出てこない。同じ現象をフルート協奏曲第1番ト長調K.313の第2楽章でも見ることが出来る。第3楽章には舞曲・民謡のフレーズも添えられた。楽の音と自在に戯れるモーツァルト!

第1楽章:アレグロ
第2楽章: アダージョ
第3楽章: ロンドー、アレグロ

(ロンドーはフランス語、ロンドと同じ。モーツァルトはしばしば洒落でロンドーと記した)

ベートーヴェン(1770~1827):交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」
作曲 1803~1804年、ウィーン
公開初演 1805年4月7日ウィーン、アン・デア・ウィーン劇場

ハイドンやモーツァルトによって培われたウィーン古典派交響曲の歴史は、ここで大きな一歩を踏み出す。

音楽面を離れれば、1804年5月のナポレオンの皇帝宣言または同年12月の戴冠式を知ったベートーヴェンが、他人清書の浄書楽譜を校閲後、表紙に記されていた献辞の部分「ボナパルテと題する」を掻き消したというエピソードも有名だ。
浄書譜の表紙に穴が開くほど烈しく消してあるが、怒りに任せてページを破り捨てたというのは、ベートーヴェンから自筆譜(行方不明)を受け取ったフェルディナント・リースの勘違いか後世の創作で、事実ではない。いずれにせよ「ボナパルテと題する」という献辞は「ひとりの偉大な人間の思い出に捧ぐ」に書き換えられた。

ではこの偉大な人間とは誰なのか。
ウィーン楽友協会資料館の元館長オットー・ビーバ博士は、あくまでひとつの可能性として、ベートーヴェンの友人でピアニストでもあったプロイセンの王子ルイ・フェルディナント(1772~1806)の名を挙げた。ベートーヴェンは同王子にピアノ協奏曲第3番ハ短調を献呈している。1806年10月、ルイ・フェルディナントはナポレオン軍との交戦で命を落とした。

交響曲第3番「英雄」は1803年に作曲され、1804年の年明けに脱稿。同年の初夏以降、ベートーヴェンの主要なパトロン(支援者)だったウィーンのロプコヴィツ侯爵の邸宅、並びに同侯爵が所有していたボヘミアの居城で試演が繰り返された。
ちなみにロプコヴィツ侯爵は莫大な報酬でこのシンフォニーを委嘱した権利として、1804年の晩秋まで独占演奏権を持っていた。その権利が無くなった後、私立!アン・デア・ウィーン劇場で作曲者自身の指揮により公開初演される。1805年4月のことだ。

私たちは、19世紀後半(後期ロマン派)以降の作曲家兼指揮者、たとえばグスタフ・マーラー(1860~1911)が、自作の交響曲を演奏するたびにスコアに手を入れ、作品の完成度を高めたことを歴史として知っている。
しかし、ベートーヴェン芸術の大きな転機となった「英雄」交響曲も、1805年4月の公開初演までに試演・私演が繰り返され、恐らく入念な微調整が施されていたのである。

桁外れのスケール感と緻密な創りを誇る第1楽章。ハ短調の葬送行進曲に聴き入る第2楽章。トリオ(中間部)でホルンの三重奏が活躍する第3楽章スケルツォ。自作の舞曲やバレエ音楽「プロメテウスの創造物」の終曲主題をもとに、究極の変奏が繰り広げられる第4楽章──から成る。変奏はベートーヴェンのライフワークだった。

第1楽章の速度表記アレグロ・コン・ブリオ(con brioは生き生きと)は、ベートーヴェンが最も好んだイタリア語表記である。
「シンフォニア・グランデ・エロイカ」(英雄交響曲)に葬送とは場違いのような気もするが、18世紀から19世紀にかけての英雄像は、戦争や死と不可分。近現代の英雄とは異なっている。装飾音を効果的に採用した、あの行進調の緩徐楽章は、英雄あるいは一人の偉大な人間を特別視する、時代の要請だったとの見方も出てきた。
葬送の美学、葬送行進曲は、ベルリオーズやシューマンを仲立ちに、世紀転換期のマーラー、それに20世紀のショスタコーヴィチの音楽に受け継がれた。
1805年春の公開初演時の批評が示唆に富む。
「衝撃的な印象と美質があるという点では、不足するところがない。ベートーヴェン氏の、情熱的かつ天才的な精神を見出すことが出来る。しかし、非常に多くの無秩序的な状況が示された作品だ」
19世紀初頭の価値基準を何もかも超越した交響曲を目の当たりにし、ただただ驚嘆した様子が伺える。
バッハ芸術の泰斗(たいと)で古典にも一家言ある熱きマエストロ鈴木雅明と仙台フィルの交歓に期待。

第1楽章:アレグロ・コン・ブリオ
第2楽章:葬送行進曲 アダージョ・アッサイ
第3楽章:スケルツォ、アレグロ・ヴィヴァーチェ
第4楽章:フィナーレ、アレグロ・モルト
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