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プログラムノート(第349回定期演奏会)
2021-10-12
カテゴリ:読み物
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奥田 佳道(音楽評論家)
ブラームス(1833~1897) :ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品83
作曲 1878年、1881年
初演 1881年11月9日ブダペスト レドゥッテンザール(王宮舞踏会場ホール)
    ブラームス自身のピアノ、アレクサンダー・エルケル指揮ブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団

気宇壮大な調べに抱かれる。
全4楽章。ピアノとオーケストラによる対話、交歓、劇的構築はまさに比類がない。
国内外のコンクール優勝で羽ばたき、来年5月には英ロイヤル・フィルとのベートーヴェンも控える小井土文哉の出演に拍手を。

19世紀後半に書かれたピアノ・コンチェルトの逸品を聴く。
骨太な音楽観と技を携えた北ドイツ人ブラームスにウィーン定住を勧め、ベートーヴェンの「後継者」たる彼の作品を好意的に紹介したウィーン音楽界の論客エドゥアルト・ハンスリック(1825~1904)の言葉が有名だ。
「ピアノ(によるオブリガート)付きの交響曲」。
さてハンスリック博士。スケール感あふれるこのコンチェルトを誉めつつも、いささか皮肉を込めたか。
若き日の肖像たる情熱的なピアノ協奏曲第1番ニ短調(1859年ハノーファーで初演)、ヴァイオリンの偉人ヨーゼフ・ヨアヒムのために書いたヴァイオリン協奏曲ニ長調(1879年ライプツィヒ・ゲヴァントハウスで初演)同様、このピアノ協奏曲第2番もソロの妙技を際立たせたロマン派協奏曲のありようを超越した傑作である。

交響的に響く。随所で存在感を際立たせるオーケストラ。ピアノとオーケストラによる文字通りアパッショナートな第2楽章。それに曲全体に漂う包容力は、なるほどこの構えの大きな協奏曲の美質である。
しかし冒頭のホルンとピアノの「二重奏」や第3楽章で主役を演じるチェロ独奏を挙げるまでもなく、室内楽に一脈通じた精妙な創りも素晴らしい。
あのチェロ独奏の調べは、自作の歌曲「まどろみはいよいよ浅く(私の眠りはますます浅くなり)」から採られた。引用ではなく、変容だ。チェロ独奏が回帰する前に、クラリネットが変ロ長調から遠い調で奏でるのは歌曲「死へのあこがれ」のエコーである。最終第4楽章を彩るロマ舞曲風のフレーズも私たちの喜びとなる。オーケストラを眺めれば、後半楽章にトランペットとティンパニは「いない」。ブラームス、いつものように凝っている。曲は十分に交響的で技巧的だが、多様な筆致を知り尽くした匠ならではの軽みも身上なのだ。

1878年初夏の日記に「ピアノ協奏曲変ロ長調」とある。しかしブラームスはヴァイオリン協奏曲、ヴァイオリン・ソナタ第1番、大学祝典序曲、悲劇的序曲を先行させた。
ピアノ協奏曲第2番の創作が佳境を迎えたのは1881年の初夏、ウィーン大学の外科医で親友のテオドール・ビルロート教授(1829~1894)とのイタリア旅行から戻り、ウィーン近郊のプレスバウムという村で夏の休暇を楽しんでいた頃。ヴァイオリンやピアノを弾き、作詞作曲にも通じたビルロート教授は、ブラームスの良き相談相手だった。弦楽四重奏曲の献呈も受けている。交響曲第2番に関しても美しい言葉を遺した。

1881年7月、48歳のブラームスは、教え子のピアニスト、エリーザベト・フォン・ヘルツォーゲンベルク(1847~1892)に宛て、こんなユーモアたっぷりの文面を書く。
「情愛に満ちた小さなスケルツォの付いた、まったく小さなピアノ協奏曲を作曲しました」。
ピアノ協奏曲第1番ニ短調を酷評され苦い思いを味わったブラームスは、二番目のピアノ協奏曲に慎重な姿勢で臨む。ウィーンでは2台ピアノ版による試演も行なった。
曲は1881年11月に、ブラームス自身のピアノによりブダペストで初演された。その翌月、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィル定期でウィーン初演が行われ、やはりブラームスがピアノを弾いている。

第1楽章:アレグロ・ノン・トロッポ
第2楽章:アレグロ・アパッショナート
第3楽章:アンダンテ
第4楽章:アレグレット・グラツィオーソ


ブラームス(1833~1897):交響曲第2番 ニ長調 作品73
作曲 1877年
初演 1877年12月30日ウィーン楽友協会大ホール
    ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1877/1878年シーズン第4回定期公演

ロマンティックな歌心と烈しい情趣を併せ持つ逸品で、凝ったオーケストレーション(管弦楽法)も聴こえてくる。

交響曲第2番に話を進める前に、シンフォニーへの歩みを少し。
外野の思惑もあり、ベートーヴェンの後継者を意識せざるを得なかったウィーンの名士ヨハネス・ブラームスが、最初の交響曲に歳月を費やしたことはよく知られている。
1833年ハンブルク生まれのブラームスにとって、1827年にウィーンで亡くなったベートーヴェンは、 遥か昔の偉人である。しかしこと交響曲の創作に関する限り、ブラームスは大いなるプレッシャーを感じていた。
いつかは交響曲を。作曲家としての道を拓いてくれた恩人シューマンの「マンフレッド」序曲作品115を体感した1855年頃から、シンフォニーへの想いはあった。 
けれどもピアニストや指揮者として多忙ゆえ、また自己批判の厳しい性格も手伝い、事はそう簡単には運ばない。いやそれ以上に、構えの大きな交響曲に相応しい管弦楽法を会得する時間が必要だった。
さらに言えば、最初の交響曲で失敗するわけにはいかない。ブラームス、実は知将だった。
40歳の年に、ウィーン・フィルの定期公演で自ら初演した「ハイドンの主題による変奏曲」に注目したい。ブラームスはここで十八番の変奏技法に冴えを見せつつ、かねてから心を寄せていた木管楽器やホルンの扱いに自信を抱く。結果、1876年にハ短調からハ長調への展開も緊密な交響曲第1番が完成する。奇しくも、ワーグナー(1813~1883)が第1回バイロイト音楽祭を開催した年だった。
1876年11月にドイツのカールスルーエで初演された交響曲第1番の創作中に続編への萌芽もあったと思われるが、意識が向かうのは1877年5月に交響曲第1番の第2楽章を改訂した後のことである。
五線譜に#二つのニ長調を基調とする交響曲第2番が見えてきた。

ブラームスは、お気に入りの避暑地で創作に勤しむ「夏の作曲家」だった。
オーストリア南部、ケルンテン(カリンシア)地方ヴェルター湖畔の小村ペルチャッハ・アム・ヴェルターゼーも大好きな場所のひとつ。ちなみに同湖畔のマイヤーニックも、後の世紀転換期に知られるようになる。マーラーが作曲の別荘を建てたからだ。
風光明媚なペルチャッハでブラームスは交響曲第2番(1877年)、ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77(1878年)それにピアノとヴァイオリンのためのソナタ第1番ト長調作品78「雨の歌」(1878/79年)を紡ぐ。改訂や浄書などの仕上げは秋、演奏旅行先やウィーンに戻ってから、というのも彼の流儀だった。この交響曲の場合、1877年の6月に書き始められ、10月には出来上がったようである。

第1楽章冒頭で低弦が奏でるレ~ド♯~レの半音動機と、そこから派生した調べが曲全体にさりげなく織り込まれている。シンコペーションのリズムやハーモニーの変幻も胸をうつ。
第2楽章はチェロの魅せ場。田園舞曲風の第3楽章に現れるスケルツォ的な楽想。休符やアウフタクトを巧みに生かした最終第4楽章の展開も、この作曲家ならではのマニアックな筆致といえる。
彼の交響曲全4曲のなかで唯一バス・テューバが使われているのも興味を誘う。
1875年、指揮者ハンス・リヒター(1843~1916)の招きにより、プロイセン(ベルリン)から10代後半のテューバ奏者がウィーン・フィルに入団しているのだが、さて、その少年の妙技と同フィルが初めて保有したテューバの音色を意識したか。テューバはプロイセン軍楽隊の楽器だった。
流麗な交響曲第2番ニ長調の第1楽章には、実はエクアーレと呼ばれる葬送の調べが織り込まれている。味わい深い第2主題を導くローブラスの響き。ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブルックナーらが、トロンボーン四重奏または三重奏によるエクアーレを書いている。
交響曲第2番は1877年12月30日、ウィーン楽友協会で開催されたハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のシーズン第4回定期公演で初演され、年明けのドイツ巡演、アムステルダム初演ともども、大好評を博す。第2番は誕生時から幸せな交響曲だったのである。
ブラームス芸術の華を、名匠飯守泰次郎と仙台フィルで聴く私たちも幸せだ。

第1楽章:アレグロ・ノン・トロッポ 
第2楽章:アダージョ・ノン・トロッポ 
第3楽章:アレグレット・グラツィオーソ
     (クアジ・アンダンティーノ、中ほどのエピソードはプレスト・マ・ノン・アッサイ )
第4楽章:アレグロ・コン・スピーリト


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