第391回 定期演奏会 プログラムノート
奥田 佳道(音楽評論家)
ブリテン(1913~1976)
ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品15
作 曲 1938年11月頃~1939年9月頃
改 訂 1950年、1954年、1965年
初 演 1940年3月28・29日ニューヨーク、カーネギーホール
独奏アントニオ・ブローザ、サー・ジョン・バルビローリ指揮ニューヨーク・フィルハーモニック定期公演
5月定期を彩った「シンフォニア・ダ・レクイエム」(1940年作曲)、「青少年のための管弦楽入門」(1945年作曲)に続くベンジャミン・ブリテンの調べ。すべての作品に当てはまるわけではないが、キリスト教の宗教観を背景としたブリテンの音楽には、戦争や内乱、人種的迫害に心を痛める(戦慄を覚える)平和、反戦主義者としての側面がある。言いようのない怒りや苦悩ゆえの激烈な表現、近未来の安息を祈る情趣が胸を打つ。
近年腕に覚えのあるヴァイオリニストが弾くようになり、録音や配信でも知られるようになったヴァイオリン協奏曲を聴く。
1950年代、60年代に(第3楽章の独奏パートを中心に大きく)改訂されているとはいえ、1939年の作曲時ブリテンは25歳。曲は若き日の「肖像」でもある。
創作の背景に名手あり。古今のヴァイオリン協奏曲のなかで、恐らく最も難しい部類に入るこのコンチェルトは、スペイン出身の歴史的ヴァイオリニスト、アントニオ・ブローサ(Antonio Brosa 1894~1979)の演奏に刺激を受けて書かれた。
いや、ブローサの鮮やかなメカニック、テクニックはあくまで創作の源泉のひとつで、ブリテンの脳裏には1930年代末のヨーロッパ情勢、この時代に台頭してしまったファシズムへの懸念、不安、絶望が広がっており、その言い尽くせぬ心情を曲に託した、ゆえに内に外に烈しい(技巧的にも難し過ぎる)と見る近代イギリス音楽の研究者も多い。ただしブリテン自身は多くを語っていないし、曲に標題もない。
ブリテンとヴァイオリンのブローサは1936年4月、スペイン内戦勃発直前のバルセロナで開催された第14回ISCM国際現代音楽フェスティヴァルで共演している。ブリテンの「ヴァイオリンとピアノのための組曲」作品6のステージ初演だった。なお同フェスティヴァルでは、アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲初演も行なわれ、ブリテンは12音技法(音列)をベースとしながらも南オーストリアの民謡がほのかに旋回し、天上を映すバッハの調べも舞うベルクの協奏曲に喝采を送った。
いっぽうその頃、ブリテンは生涯のパートナーとなるテノール歌手ピーター・ピアーズ(1910~1986)と出逢い、二人は何と内戦(市民戦争)下のスペインをも訪れている。ブリテンのもうひとりの盟友で詩人のオーデン(1907~1973)もスペインに足を踏み入れた。戦争や暴力、具体的にはスペイン、ドイツにおけるファシズムの台頭に異を唱える芸術家の行動は早かった。現実と理想との間で葛藤し、時に無力を自覚したとはいえ。
第2次世界大戦が勃発しようかという時期、自身の良心に基づき兵役拒否を貫いた平和主義者ブリテンは、先にアメリカに移った詩人オーデンを追う形で、歌手のピーター・ピアーズとともに渡米。ヴァイオリニスト、ブローザとの再会も果たす。
ヴァイオリン協奏曲が見えてきた。1939年夏、ブリテンはカナダ、ケベック州サン・ジョヴィートにあったアーロン・コープランド!(1900~1990)の別荘に滞在し、前年晩秋から手がけていたコンチェルトを完成させる。
別掲データの初演後、曲に満足していなかったブリテンはイギリスのヴァイオリニスト、マヌーグ・パリキアン(1920~1987)の助言を受けつつ改訂を施す。アメリカの音楽評論家ゴールドバーグに宛てた1950年秋の文面を要約する。
「私が1939年に作曲したヴァイオリン協奏曲は国内外で何度も演奏されてきましたが、満足は出来ませんでした。(この度ヤッシャ)ハイフェッツが演奏するという話を聞きましたので、それで見直すことにしました。曲の構成自体に変わりはなく、新しい素材もありませんが、カデンツァなどを少し短くしました。第3楽章の独奏ヴァイオリンのパートは書き直しています。
1939年に、今の経験で作曲をしていれば、どのような協奏曲になっていたでしょうか。今回の改訂でそれが実現したことを願っています。かつての私は、特に第3楽章で自分の能力以上の作曲をしていました」
第1楽章 モデラート・コン・モート~アジタート(激して)~テンポ・プリモ
ティンパニが奏でる明確な動機(ベートーヴェンへのオマージュと見る論考もある)を、初演者ブローサは「スペインのリズム」と名づけた。この動機は独奏ヴァイオリンも弾く、というよりも第1楽章の主要動機でオスティナートよろしく繰り返される。
いっぽう、ラフマニノフの交響的舞曲(1940年作曲、1941年オーマンディ指揮フィラデルフィア管により初演)を予告するかのようなオーケストラの響きも聴こえてくる。独奏ヴァイオリンの清らかな高音から切れ目なく第2楽章へ。
第2楽章 ヴィヴァーチェ~アニマンド(しだいに活発に)~ラルガメンテ(豊かに、ゆったりと)
モダニストだったプロコフィエフの2曲のヴァイオリン協奏曲や初期の交響曲に通じる劇的なスケルツォで、チューバ、2本のピッコロも魅せ場を創る。
あらゆる技を必要とするカデンツァは壮絶で、第1楽章、第3楽章の動機も織り込まれている。このカデンツァから切れ目なく第3楽章へ。
第3楽章 パッサカリア、アンダンテ・レント(ウン・ポーコ・メノ・モッソ)
前の楽章のカデンツァを受け継ぎ、トロンボーンによる上行主題が聴こえてくる。バロック音楽の変奏のひとつ、パッサカリア(シャコンヌ)に基づく構えの大きな終楽章だが、南欧舞曲風のフレーズも添えられている。曲は、ニ長調の聖歌風の調べで閉じられるかと思いきや、痛みや絶望をも示唆し、和声的には「着地、解決」することなく静寂を迎える。
ウォルトン(1902~1983)
交響曲第1番 変ロ短調
作 曲 1931年、1933年~1934年、1935年
第3楽章までの初演 1934年12月3日ロンドン、クイーンズホール
ハミルトン・ハーティ指揮ロンドン交響楽団
初 演 1935年11月6日ロンドン、ハミルトン・ハーティ指揮BBC交響楽団
すでに詩と音楽によるエンターテインメント「ファサード」(1922/23年)、ヴィオラ協奏曲(1929年)や聖書に基づくカンタータ「ベルシャザールの饗宴」(1931年)でイギリス音楽界に名乗りを挙げていたウィリアム・ウォルトンが、第3楽章までとはいえ交響曲第1番を発表した1934年は、奇しくも同国作曲家の世代交代を象徴する年となった。
2月にエルガー(1857~1934)、5月にホルスト(1874~1934)、6月にディーリアス(1862~1934)が亡くなっている。ウォルトンの交響曲第1番(第3楽章まで)は12月に鳴り響いた。
1920年代、30年代前半のイギリス作曲界、オーケストラ界では「標題やプログラム性をもたない交響曲こそ、ひとつの理想的な音楽の形態」との考えが浸透していた。その立役者、つまりイギリスに交響曲の伝統を授けたのは、曲数はともかくエルガーだ。英王室音楽師範(マスター・オブ・ザ・キングズ・ミュージック)でもあったエルガーは、英王室の儀式や博覧会用の「機会音楽」も素晴らしいが、ここでは交響曲の人といいたい。もう一人、7曲の交響曲を書き「アイリッシュ」と題された交響曲第3番で知られるサー・チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード(1852~1924)のことも語りたいが、アムステルダムのコンセルトヘボウ開場時(1888年)にも演奏されたスタンフォード作品についてはまたの機会に。
ウォルトンが交響曲を構想した1930年代初頭、イギリスでは、ジャン・シベリウスの交響曲もオーケストラ芸術の一つの規範とみなされており、音符の並びからして美しいシベリウス孤高のオーケストレーション(管弦楽法)は、ウォルトンにも好ましい影響を与えた。
交響曲第1番冒頭のティンパニ、ホルン、木管のフレーズ、一定のリズムと急速なテンポ感で(無窮動的に)弾く弦楽に、シベリウスの筆致が見え隠れする。
シベリウス云々ではなく、ウォルトンのなかに、もっと表現主義的な、烈しくも明晰な音響を見出す向きもおいでだろう。実際、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、それにヒンデミットとの相関性を指摘した論考も多い。しかしウォルトンはウォルトンであり、壮麗な響きは彼にしか書けないものである。
音楽作品と作曲家のプライヴェートを結びつけるのは危険で、曲目解説の上で避けなければならない「方法論」だが、ウォルトンの交響曲第1番に関しては、創作中に恋愛関係にあったドイツのドーンベルク男爵未亡人イマとの蜜月、破綻、別の貴婦人との出逢いが、創作に見え隠れする。
1931年(1932年との説もある)から交響曲の創作に邁進していたウォルトンは1933年(または1934年)、フルートのソロも美しい第3楽章まで書き上げた後、作曲を中断する。
ドイツの男爵未亡人イマとの関係に終止符が打たれたショックから立ち直れなかった、とはイギリスの音楽評論家エドワード・グリーンフィールド(1928~2015)らの言説で、どうもその通りのようだ。
初演を内諾していた指揮者のハミルトン・ハーティとロンドン交響楽団は、なかなか作曲を再開しないウォルトンを叱咤激励しつつ、完成していた第3楽章までの初演を認めさせている。
1934年、初の映画音楽などを手がけたウォルトンは、ずっと年上のウィンボーン子爵夫人アリスと出逢い、心が安定したようで、およそ8ヵ月ぶりに交響曲の作曲を再開する。そうして1935年8月に出来上がったのが、管打楽器の活躍もフーガの技法も主役を演じる第4楽章だ。
古き良き時代の大英帝国の誇りや威厳を映し出したかのような重層的な創りと、ディヴェルティメント風の楽想をあわせもつ熱きフィナーレが聴こえてくる。ウォルトンはフーガもファンファーレも素晴らしい。休符を交えた凝ったエンディングにご注目を。
第1楽章 アレグロ・アッサイ~ポーコ・メノ・モッソ~アジタート 変ロ長調
第2楽章 プレスト・コン・マリツィア con malizia悪意(邪気)をもって ホ短調
第3楽章 アンダンテ・コン・マリンコニア con malinconiaメランコリーをもって 嬰ハ短調
第4楽章 マエストーソ~アレグロ、ブリオーソ・エド・アルデンテメンテ brioso ed ardentemente快活に、情熱的に 変ロ長調
ヴィヴァチッシモ~マエストーソ
