第384回 定期演奏会 プログラムノート
奥田 佳道(音楽評論家)
芥川也寸志(1925~1989)
弦楽のための「陰画」
作 曲 1966年6月
初 演 1966年11月3日NHKのラジオ番組<ステレオ音楽> 岩城宏之指揮NHK交響楽団の弦メンバー
原タイトルは「絃楽オーケストラのための陰画」
初 演 1966年11月3日NHKのラジオ番組<ステレオ音楽> 岩城宏之指揮NHK交響楽団の弦メンバー
原タイトルは「絃楽オーケストラのための陰画」
秘曲を聴く。弦に軽く触れて倍音を響かせるフラジオレット(ハーモニクス)奏法や、駒の近くで弾きメタリックな擦(す)れた音を出すスル・ポンティチェロ奏法の効果も鮮やかだ。ステージを眺めれば、コントラバスが中央に置かれ、左右(ステージの下手、上手)に2群の弦楽(第1、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)が配されている。自筆譜に記された配置である。
狭い音域を小気味よく行き来しながら颯爽と駆け抜けてゆく、いわゆる芥川節とは異なる神秘的な響きが舞う。しかしこれも「モダニスト」芥川也寸志の芸風なのだ。とくに1960年代の。
弦楽のための「陰画」は前掲データのように1966年にNHKのラジオ番組で紹介されたが、その4年前に創られ、武満徹に捧げられた「弦楽のための音楽第1番」を下敷きとしている。
曲は、芥川が提唱した「マイナス空間(音楽)論」によって創られている。同論を端的に申せば、無や零の状態から音を組み立ててゆく(音を積み重ねる)のではなく、すでに鳴り響いている音から音を削る(音を消す)作曲法─となる。静寂の中に聴こえてくる音以上に、静寂へ向かう音に重点が置かれている、とは芥川の言葉。タイトルの「陰画」は、写真における陽画(ポジ)の対義語として採用された。
なお「マイナス空間(音楽)論」は1956年4月、日本アジア連帯委員会の文化使節団のひとりとして、インドのエローラ石窟(せっくつ)群/エローラ寺院を訪れた際の強烈な体験から導き出されたという。
狭い音域を小気味よく行き来しながら颯爽と駆け抜けてゆく、いわゆる芥川節とは異なる神秘的な響きが舞う。しかしこれも「モダニスト」芥川也寸志の芸風なのだ。とくに1960年代の。
弦楽のための「陰画」は前掲データのように1966年にNHKのラジオ番組で紹介されたが、その4年前に創られ、武満徹に捧げられた「弦楽のための音楽第1番」を下敷きとしている。
曲は、芥川が提唱した「マイナス空間(音楽)論」によって創られている。同論を端的に申せば、無や零の状態から音を組み立ててゆく(音を積み重ねる)のではなく、すでに鳴り響いている音から音を削る(音を消す)作曲法─となる。静寂の中に聴こえてくる音以上に、静寂へ向かう音に重点が置かれている、とは芥川の言葉。タイトルの「陰画」は、写真における陽画(ポジ)の対義語として採用された。
なお「マイナス空間(音楽)論」は1956年4月、日本アジア連帯委員会の文化使節団のひとりとして、インドのエローラ石窟(せっくつ)群/エローラ寺院を訪れた際の強烈な体験から導き出されたという。
岩肌や洞窟を削って造られたエローラ石窟寺院の異次元的な佇まいから「十二音すべてを鳴らした状態から、あるパートが演奏を止(や)めることにより、別の響きが生まれる」作曲法が誕生したのだ。
※参考文献
・西 耕一氏企画/プロデュースのオーケストラ・トリプティーク「芥川也寸志生誕100年記念コンサート」(2025年7月20日開催)のパンフレット冊子の年譜
・スリーシェルズのCD 「オーケストラ・トリプティークによる芥川也寸志個展」(3SCD 0044)の清道洋一氏のライナーノート
※参考文献
・西 耕一氏企画/プロデュースのオーケストラ・トリプティーク「芥川也寸志生誕100年記念コンサート」(2025年7月20日開催)のパンフレット冊子の年譜
・スリーシェルズのCD 「オーケストラ・トリプティークによる芥川也寸志個展」(3SCD 0044)の清道洋一氏のライナーノート
バルトーク(1881~1945)
ヴァイオリン協奏曲第2番 Sz.112
作 曲 1937年~1938年、1939年改訂
初 演 1939年3月23日アムステルダム、コンセルトヘボウ(ホール)
ゾルターン・セーケイのヴァイオリン独奏、ウィレム・メンゲルベルク指揮
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(現名称ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)
初 演 1939年3月23日アムステルダム、コンセルトヘボウ(ホール)
ゾルターン・セーケイのヴァイオリン独奏、ウィレム・メンゲルベルク指揮
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(現名称ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)
ハープの和音、そしてホルン、低弦のピッツィカートが導く開始部の、何と詩的でかぐわしいこと。それを受け継ぐヴァイオリン独奏も驚くほど美しい。
冒頭の調べは、18世紀後半から19世紀前半にハンガリー文化圏(いまのルーマニア、スロヴァキアの一部を含む)で愛された民俗舞曲「ヴェルブンコシュ」(verbunkos)に基づく。バルトーク芸術の源泉を成す「ヴェルブンコシュ」は、新兵募集の際に兵士たちがロマ(ジプシー)楽団の演奏で披露したダンスのこと。チャールダッシュの前身で、緩やかな楽節ラッシュー(ラッサン)とテンポの速い楽節フリシュカが交互に現われる。若き日にコダーイとともに山あいの農村に赴き、民謡や舞曲を採譜したバルトークは、緩急の対比も鮮やかなこの民俗舞曲から多くの霊感を得ている。
民謡素材と十二音技法をも意識した厳格な理論に基づく楽想をあわせもつバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番は、20世紀に書かれた最も素晴らしいコンチェルトのひとつで、録音や演奏の機会にも比較的恵まれている。国際コンクールで、腕に覚えのある若手のヴァイオリニストがあたかも競うかのごとく弾くコンチェルトでもある。
創作の背景に名手あり。曲は、バルトークの年下の親友でハンガリーの歴史的なヴァイオニスト、ゾルターン・セーケイ(1903~2001)の依頼によって書かれた。バルトークは単一楽章の変奏主体の協奏曲を提案したが、セーケイは伝統的な楽章構成による協奏曲を強く要望し、現行の作品が創られる。しかし変奏の達人で、アーチ構造と呼ばれる対称的な作曲法を好んだバルトークは変奏の筆致に凝った。
なおこの作品、当初はバルトーク唯一のヴァイオリン協奏曲とみられていた。しかし20代のとき(1907年、08年)に当時のガールフレンド(フバイ門下のヴァイオリニスト)のために創った2楽章から成る協奏曲の存在が1950年代半ばに明らかになり、そちらが第1番となった。
ヴァイオリン協奏曲第2番に戻せば、オーケストラの編成が、このジャンルとしてはとても大きく、前述のハープのほか、チェレスタ、多彩な打楽器も見せ場を創る。木管は持ち替えを含めて各3、そしてホルン4、トランペット2、トロンボーン3という陣容。
第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ
楽章の後半で、独奏ヴァイオリンは微分音の一種である四分音(しぶおん、全音の4分の1、半音の2分の1の音程)も奏でる。
第2楽章 アンダンテ・トランクィロ
内省的な自作主題に基き、6つの変奏が続く。最後に自作主題が回想され、静寂とともに閉じられる。
第3楽章 アレグロ・モルト
オーケストラによるごく短い序奏に導かれ、変化に富んだ楽想が駆け出す。第1楽章の自由な変奏である。コーダ(終結部)は、委嘱・初演者セーケイの希望で創られた華やかな第2ヴァージョンが一般的だ。
冒頭の調べは、18世紀後半から19世紀前半にハンガリー文化圏(いまのルーマニア、スロヴァキアの一部を含む)で愛された民俗舞曲「ヴェルブンコシュ」(verbunkos)に基づく。バルトーク芸術の源泉を成す「ヴェルブンコシュ」は、新兵募集の際に兵士たちがロマ(ジプシー)楽団の演奏で披露したダンスのこと。チャールダッシュの前身で、緩やかな楽節ラッシュー(ラッサン)とテンポの速い楽節フリシュカが交互に現われる。若き日にコダーイとともに山あいの農村に赴き、民謡や舞曲を採譜したバルトークは、緩急の対比も鮮やかなこの民俗舞曲から多くの霊感を得ている。
民謡素材と十二音技法をも意識した厳格な理論に基づく楽想をあわせもつバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番は、20世紀に書かれた最も素晴らしいコンチェルトのひとつで、録音や演奏の機会にも比較的恵まれている。国際コンクールで、腕に覚えのある若手のヴァイオリニストがあたかも競うかのごとく弾くコンチェルトでもある。
創作の背景に名手あり。曲は、バルトークの年下の親友でハンガリーの歴史的なヴァイオニスト、ゾルターン・セーケイ(1903~2001)の依頼によって書かれた。バルトークは単一楽章の変奏主体の協奏曲を提案したが、セーケイは伝統的な楽章構成による協奏曲を強く要望し、現行の作品が創られる。しかし変奏の達人で、アーチ構造と呼ばれる対称的な作曲法を好んだバルトークは変奏の筆致に凝った。
なおこの作品、当初はバルトーク唯一のヴァイオリン協奏曲とみられていた。しかし20代のとき(1907年、08年)に当時のガールフレンド(フバイ門下のヴァイオリニスト)のために創った2楽章から成る協奏曲の存在が1950年代半ばに明らかになり、そちらが第1番となった。
ヴァイオリン協奏曲第2番に戻せば、オーケストラの編成が、このジャンルとしてはとても大きく、前述のハープのほか、チェレスタ、多彩な打楽器も見せ場を創る。木管は持ち替えを含めて各3、そしてホルン4、トランペット2、トロンボーン3という陣容。
第1楽章 アレグロ・ノン・トロッポ
楽章の後半で、独奏ヴァイオリンは微分音の一種である四分音(しぶおん、全音の4分の1、半音の2分の1の音程)も奏でる。
第2楽章 アンダンテ・トランクィロ
内省的な自作主題に基き、6つの変奏が続く。最後に自作主題が回想され、静寂とともに閉じられる。
第3楽章 アレグロ・モルト
オーケストラによるごく短い序奏に導かれ、変化に富んだ楽想が駆け出す。第1楽章の自由な変奏である。コーダ(終結部)は、委嘱・初演者セーケイの希望で創られた華やかな第2ヴァージョンが一般的だ。
ブラームス(1833~1897)
交響曲第1番 ハ短調 作品68
作 曲 1855年頃(構想)、1862年、1868年、1873/74年~1876年
初 演 1876年11月4日カールスルーエ(ドイツ)、フェリックス・オットー・デッソフ指揮
バーデン宮廷劇場管弦楽団1876/77年シーズン第1回定期公演
バーデン宮廷劇場管弦楽団1876/77年シーズン第1回定期公演
外野の思惑もあり、ベートーヴェンの「後継者」を意識せざるを得なかったドイツ人ヨハネス・ブラームスが、最初の交響曲の創作に歳月を費やしたことはよく知られている。
1827年にハプスブルクの帝都ウィーンで亡くなったベートーヴェンと1833年にドイツ北部の港町ハンブルクで生れたブラームスに、時代的な接点はない。ブラームスからみれば、ベートーヴェンは遥か昔の偉人なのだが、音楽の都ウィーンの名士となった後も、ブラームスは先人へのプレッシャーをひしひしと感じていた。
いつかは交響曲を。しかしピアニストや指揮者として多忙ゆえ、また自作の出来栄えにも厳しかった性格も手伝い、事はそう簡単には運ばない。すでに2曲のセレナード、ピアノ協奏曲第1番などを手がけていたとはいえ、構えの大きなシンフォニーにふさわしい管弦楽法を会得する時間も必要だった。
しかし時は熟し、交響曲への道がついに拓かれる。
1868年9月、35歳のブラームスは、自分を音楽の世界に導いた恩人ロベルト・シューマン(1810~1856)の妻だったクララ・シューマン(1819~1896)の49歳の誕生日を祝うために、滞在先のスイスから挨拶状を送る。その手紙にはアダージョの旋律と次の言葉が添えられていた。
「今日アルペンホルンがこのように響きました。高い頂の山から、深い谷から、あなたに何千回も心からのご挨拶を申し上げます」。
第4楽章でホルンが奏でるあの雄大な調べは、14歳年上の歴史的ピアニスト、クララ・シューマンへの(愛の)プレゼントだったのか。
いっぽう、1873年11月には、ピッコロ1、ホルン4、コントラファゴット1を交えた「ハイドンの主題による変奏曲」をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期公演で自ら指揮して初演。オーケストラ曲への自信を深める。ちなみに同定期でモーツァルトの交響曲ニ長調(何番か特定出来ない)とベートーヴェンの交響曲第7番を指揮したのが、後述のオットー・デッソフである。
五線譜に♭記号3つのハ短調からハ長調への構成も緻密な交響曲第1番は、1876年の晩秋にドイツ南西部のカールスルーエ(現バーデン=ヴュルテンベルク州)で、ウィーンを拠点としていたユダヤ系ドイツ人指揮者フェリックス・オットー・デッソフ(1835~1892)のタクトによって初演される。
「私の最初の交響曲は、良き友人の指揮で小さな街で聴きたい」。
知将ブラームスは大都市でのお披露目を避けたきらいがある。失敗するわけにはいかなかった。同年夏に開催された第1回バイロイト音楽祭(ワーグナー芸術の祭典)のことを気に留めていたようである。
カールスルーエでの初演に続くマンハイム、ミュンヘン、ウィーン、ライプツィヒ(1877年1月)、ブレスラウ(現ポーランドのヴロツワフ)、英ケンブリッジ、ロンドンでのお披露目も好評を博す。大学街での演奏が多かった点に注目したい。コントラファゴット、トロンボーン3によって奏でられる第4楽章の聖歌風の調べに、心で喝采を叫んだ聴き手が多かったと思われる。
1877年1月のライプツィヒ・ゲヴァントハウス会館での演奏をクララ・シューマンが聴いたようである。ピアノによる試演を通じ、件(くだん)のアルペンホルンの旋律が交響曲に織り込まれていることを知っていたとは言え、クララは感激したに違いない。
推敲好きのブラームスは、友人の助言も踏まえ、楽譜を印刷に回す直前の1877年5月※にロンド形式で書かれたセレナード的な第2楽章を3部形式に改訂する。その第2楽章ではコンサートマスターのソロも主役を演じる。
※ウィーン楽友協会の前資料室長オットー・ビーバ博士は、改訂は1876年12月のウィーン初演時と主張している。
第1楽章 ウン・ポーコ(いくぶん)・ソステヌート~アレグロ ハ短調
第2楽章 アンダンテ・ソステヌート ホ長調
第3楽章 ウン・ポーコ・アレグレット・エ・グラツィオーソ 変イ長調
第4楽章 アダージョ~ピウ・アンダンテ~アレグロ・ノン・トロッポ・マ・コン・ブリオ ハ短調~ハ長調
1827年にハプスブルクの帝都ウィーンで亡くなったベートーヴェンと1833年にドイツ北部の港町ハンブルクで生れたブラームスに、時代的な接点はない。ブラームスからみれば、ベートーヴェンは遥か昔の偉人なのだが、音楽の都ウィーンの名士となった後も、ブラームスは先人へのプレッシャーをひしひしと感じていた。
いつかは交響曲を。しかしピアニストや指揮者として多忙ゆえ、また自作の出来栄えにも厳しかった性格も手伝い、事はそう簡単には運ばない。すでに2曲のセレナード、ピアノ協奏曲第1番などを手がけていたとはいえ、構えの大きなシンフォニーにふさわしい管弦楽法を会得する時間も必要だった。
しかし時は熟し、交響曲への道がついに拓かれる。
1868年9月、35歳のブラームスは、自分を音楽の世界に導いた恩人ロベルト・シューマン(1810~1856)の妻だったクララ・シューマン(1819~1896)の49歳の誕生日を祝うために、滞在先のスイスから挨拶状を送る。その手紙にはアダージョの旋律と次の言葉が添えられていた。
「今日アルペンホルンがこのように響きました。高い頂の山から、深い谷から、あなたに何千回も心からのご挨拶を申し上げます」。
第4楽章でホルンが奏でるあの雄大な調べは、14歳年上の歴史的ピアニスト、クララ・シューマンへの(愛の)プレゼントだったのか。
いっぽう、1873年11月には、ピッコロ1、ホルン4、コントラファゴット1を交えた「ハイドンの主題による変奏曲」をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の定期公演で自ら指揮して初演。オーケストラ曲への自信を深める。ちなみに同定期でモーツァルトの交響曲ニ長調(何番か特定出来ない)とベートーヴェンの交響曲第7番を指揮したのが、後述のオットー・デッソフである。
五線譜に♭記号3つのハ短調からハ長調への構成も緻密な交響曲第1番は、1876年の晩秋にドイツ南西部のカールスルーエ(現バーデン=ヴュルテンベルク州)で、ウィーンを拠点としていたユダヤ系ドイツ人指揮者フェリックス・オットー・デッソフ(1835~1892)のタクトによって初演される。
「私の最初の交響曲は、良き友人の指揮で小さな街で聴きたい」。
知将ブラームスは大都市でのお披露目を避けたきらいがある。失敗するわけにはいかなかった。同年夏に開催された第1回バイロイト音楽祭(ワーグナー芸術の祭典)のことを気に留めていたようである。
カールスルーエでの初演に続くマンハイム、ミュンヘン、ウィーン、ライプツィヒ(1877年1月)、ブレスラウ(現ポーランドのヴロツワフ)、英ケンブリッジ、ロンドンでのお披露目も好評を博す。大学街での演奏が多かった点に注目したい。コントラファゴット、トロンボーン3によって奏でられる第4楽章の聖歌風の調べに、心で喝采を叫んだ聴き手が多かったと思われる。
1877年1月のライプツィヒ・ゲヴァントハウス会館での演奏をクララ・シューマンが聴いたようである。ピアノによる試演を通じ、件(くだん)のアルペンホルンの旋律が交響曲に織り込まれていることを知っていたとは言え、クララは感激したに違いない。
推敲好きのブラームスは、友人の助言も踏まえ、楽譜を印刷に回す直前の1877年5月※にロンド形式で書かれたセレナード的な第2楽章を3部形式に改訂する。その第2楽章ではコンサートマスターのソロも主役を演じる。
※ウィーン楽友協会の前資料室長オットー・ビーバ博士は、改訂は1876年12月のウィーン初演時と主張している。
第1楽章 ウン・ポーコ(いくぶん)・ソステヌート~アレグロ ハ短調
第2楽章 アンダンテ・ソステヌート ホ長調
第3楽章 ウン・ポーコ・アレグレット・エ・グラツィオーソ 変イ長調
第4楽章 アダージョ~ピウ・アンダンテ~アレグロ・ノン・トロッポ・マ・コン・ブリオ ハ短調~ハ長調


