第383回 定期演奏会 プログラムノート
奥田 佳道(音楽評論家)
リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)
13管楽器のためのセレナード 変ホ長調 作品7
作 曲 1882年
初 演 1882年11月ドレスデン、ドレスデン宮廷歌劇場管弦楽団のメンバー、指揮フランツ・ヴュルナー
初 演 1882年11月ドレスデン、ドレスデン宮廷歌劇場管弦楽団のメンバー、指揮フランツ・ヴュルナー
穏やかなアンダンテ楽想の向こうに、創造の地平を拓かんとする若者の才気が見え隠れ。いっぽう、古典の美、モーツァルトへの憧憬(しょうけい)も「こだま」する。オーボエの音色が美しい。
音楽のスタイルとしては、モーツァルト時代のソナタ形式およびハルモニームジーク(管楽合奏曲)を範として創られ、楽章数や楽器編成はともかく「セレナード変ロ長調K361/通称グラン・パルティータ」へのオマージュも感じられる。メンデルスゾーンの明晰な筆致、あるいは1873年11月にウィーン・フィルの定期で初演、出版されたブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」の楽想も、若きリヒャルト・シュトラウスの脳裏に響いたか…。
1882年、18歳の年に完成し、フリードリヒ・ヴィルヘルム・マイヤーという恩師のバイエルン(ミュンヘン)宮廷楽長に捧げられた「13管楽器のためのセレナード」こそ、ドイツ・ロマン派最後の巨匠リヒャルト・シュトラウスの出世作である。
編成はフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット各2、ホルン4、コントラファゴット1またはチューバ1またはコントラバス1で、今回はチューバが奏でる。
単一楽章で書かれたこの曲は1882年11月にドレスデンで初演された後、19世紀音楽界の偉人で指揮者/ピアニストのハンス・フォン・ビューロー(1830~1894)のお気に入りとなった。ビューローがマイニンゲン、ベルリンなどで取り上げたことにより、10代のリヒャルト・シュトラウスの名前は故郷ミュンヘン以外でも知られるようになる。
音楽のスタイルとしては、モーツァルト時代のソナタ形式およびハルモニームジーク(管楽合奏曲)を範として創られ、楽章数や楽器編成はともかく「セレナード変ロ長調K361/通称グラン・パルティータ」へのオマージュも感じられる。メンデルスゾーンの明晰な筆致、あるいは1873年11月にウィーン・フィルの定期で初演、出版されたブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」の楽想も、若きリヒャルト・シュトラウスの脳裏に響いたか…。
1882年、18歳の年に完成し、フリードリヒ・ヴィルヘルム・マイヤーという恩師のバイエルン(ミュンヘン)宮廷楽長に捧げられた「13管楽器のためのセレナード」こそ、ドイツ・ロマン派最後の巨匠リヒャルト・シュトラウスの出世作である。
編成はフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット各2、ホルン4、コントラファゴット1またはチューバ1またはコントラバス1で、今回はチューバが奏でる。
単一楽章で書かれたこの曲は1882年11月にドレスデンで初演された後、19世紀音楽界の偉人で指揮者/ピアニストのハンス・フォン・ビューロー(1830~1894)のお気に入りとなった。ビューローがマイニンゲン、ベルリンなどで取り上げたことにより、10代のリヒャルト・シュトラウスの名前は故郷ミュンヘン以外でも知られるようになる。
ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)
交響曲第25番 ト短調 K.183
作 曲 1773年10月5日(完成)
初 演 不明
初 演 不明
人気曲を聴く。拍節の位置をずらし、音楽に緊張感や推進性を授けるシンコペーションのリズムが鮮やかだ。(演奏によっては流麗に)疾走する弦が私たちを魅了してやまない。
オーボエとホルンも大切な役割を担う。ちなみに冒頭の烈しい調べは、1980年代の名画<Amadeus>から近年のSnow Man<EMPIRE>まで多くの映像を彩ってきた。
1773年10月に故郷ザルツブルクで書かれた。モーツァルトこのとき17歳。同年夏、モーツァルト父子は早3度目となるウィーン旅行を行なっている。そのウィーン音楽界では、1760年代後半から短調の交響曲への関心が高まりつつあった。
のちに文学の世界で広まるシュトゥルム・ウント・ドラング、直訳すると嵐と衝動。これは一般的には疾風怒濤と訳されるが、このシュトゥルム・ウント・ドラングの美学が、文学よりも前にウィーンの作曲家たちに共有されていたようなのだ。
ハイドン、ウィーン出身のディッタースドルフ、そしてボヘミア出身のヴァンハルという1730年代生れの作曲家たちが、短調の交響曲、いわゆる疾風怒濤の美学に通じる作品を創っている。ハイドンは交響曲第39番ト短調と交響曲第44番ホ短調「悲しみ」、ヴァンハルは交響曲ト短調といった具合に。
モーツァルトがこれらの作品を知っていたかどうは別として、短調で交響曲や序曲を書くというウィーン音楽界の潮流が、交響曲第25番に何かを授けたとしても不思議ではない。
実際ハイドンとヴァンハルのト短調交響曲がモデルになったという論考も出されている。強弱のくっきりとした対比や(奏でる音に制約があったがゆえの)ホルン4の筆致など、ハイドン、ヴァンハル、モーツァルトのト短調交響曲には共通項が多い。
もちろん滋味あふれる調べも舞う。第2楽章では弱音器を付けたヴァイオリンとファゴットの対話に魅了される。第3楽章のトリオ(中間部)を彩るオーボエ、ファゴット、ホルンのアンサンブルがまた素晴らしい。
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ
第2楽章 アンダンテ
第3楽章 メヌエット
オーボエとホルンも大切な役割を担う。ちなみに冒頭の烈しい調べは、1980年代の名画<Amadeus>から近年のSnow Man<EMPIRE>まで多くの映像を彩ってきた。
1773年10月に故郷ザルツブルクで書かれた。モーツァルトこのとき17歳。同年夏、モーツァルト父子は早3度目となるウィーン旅行を行なっている。そのウィーン音楽界では、1760年代後半から短調の交響曲への関心が高まりつつあった。
のちに文学の世界で広まるシュトゥルム・ウント・ドラング、直訳すると嵐と衝動。これは一般的には疾風怒濤と訳されるが、このシュトゥルム・ウント・ドラングの美学が、文学よりも前にウィーンの作曲家たちに共有されていたようなのだ。
ハイドン、ウィーン出身のディッタースドルフ、そしてボヘミア出身のヴァンハルという1730年代生れの作曲家たちが、短調の交響曲、いわゆる疾風怒濤の美学に通じる作品を創っている。ハイドンは交響曲第39番ト短調と交響曲第44番ホ短調「悲しみ」、ヴァンハルは交響曲ト短調といった具合に。
モーツァルトがこれらの作品を知っていたかどうは別として、短調で交響曲や序曲を書くというウィーン音楽界の潮流が、交響曲第25番に何かを授けたとしても不思議ではない。
実際ハイドンとヴァンハルのト短調交響曲がモデルになったという論考も出されている。強弱のくっきりとした対比や(奏でる音に制約があったがゆえの)ホルン4の筆致など、ハイドン、ヴァンハル、モーツァルトのト短調交響曲には共通項が多い。
もちろん滋味あふれる調べも舞う。第2楽章では弱音器を付けたヴァイオリンとファゴットの対話に魅了される。第3楽章のトリオ(中間部)を彩るオーボエ、ファゴット、ホルンのアンサンブルがまた素晴らしい。
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ
第2楽章 アンダンテ
第3楽章 メヌエット
第4楽章 アレグロ
リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)
交響詩「ドン・ファン」 作品20
作 曲 1888年
初 演 1889年11月ワイマール、作曲者自身指揮ワイマール宮廷歌劇場管弦楽団
初 演 1889年11月ワイマール、作曲者自身指揮ワイマール宮廷歌劇場管弦楽団
鮮烈この上ない響きがホールを満たす。妖艶な調べも舞う。
スペインの伝説的な色男ドン・ファン(Don Juan スペイン語の発音に近い表記だとドン・フアン)伝説に魅了された詩人、劇作家、作曲家は多い。モーツァルトも1787年、ウィーンの宮廷詩人ダ・ポンテと組んでオペラ「ドン・ジョヴァンニ」(ドン・ファンのイタリア語表記)を書き、百塔の街プラハで初演した。
ドン・ファンの「生き様」は歴史や人を介して多様化されてゆく。放蕩の限りを尽くし最後には地獄落ちする(しかし皆の記憶には刻まれる)色男から、真実の愛と悦楽を追い求めた理想主義者的なものまで、様々である。
若き日のシュトラウスが霊感を受けたのは、オーストリア・ハンガリーの詩人ニコラウス・レーナウ(1802~1850)のロマンティックな叙事詩だ。ここでのドン・ファンは、永遠なる理想の女性を求めた英雄として描かれている。しかし英雄の望みは果たされない。レーナウの「ドン・ファン」は交響詩の父フランツ・リスト(1811~1886)にも好ましい影響を授けた。
交響詩「ドン・ファン」の初期総譜にはレーナウの詩が3節引用されている。
「計り知れないほど広く、美女の魅力にあふれた魔法の国を旅し、快楽の嵐が吹き荒れる中、最後の女性にキスし、死にたいと思う」(冒頭句より、拙訳)。
管弦楽打楽器の見せ場、魅せ場は尽きない。この交響詩(音詩)は、いわば歌のない小楽劇で、実際雄々しく突き進むドン・ファン、そして彼と関わる女性たちの「示導動機」も聴こえてくる。
芸術的な覇気に満ちあふれていたリヒャルト・シュトラウス、作曲時24歳。
スペインの伝説的な色男ドン・ファン(Don Juan スペイン語の発音に近い表記だとドン・フアン)伝説に魅了された詩人、劇作家、作曲家は多い。モーツァルトも1787年、ウィーンの宮廷詩人ダ・ポンテと組んでオペラ「ドン・ジョヴァンニ」(ドン・ファンのイタリア語表記)を書き、百塔の街プラハで初演した。
ドン・ファンの「生き様」は歴史や人を介して多様化されてゆく。放蕩の限りを尽くし最後には地獄落ちする(しかし皆の記憶には刻まれる)色男から、真実の愛と悦楽を追い求めた理想主義者的なものまで、様々である。
若き日のシュトラウスが霊感を受けたのは、オーストリア・ハンガリーの詩人ニコラウス・レーナウ(1802~1850)のロマンティックな叙事詩だ。ここでのドン・ファンは、永遠なる理想の女性を求めた英雄として描かれている。しかし英雄の望みは果たされない。レーナウの「ドン・ファン」は交響詩の父フランツ・リスト(1811~1886)にも好ましい影響を授けた。
交響詩「ドン・ファン」の初期総譜にはレーナウの詩が3節引用されている。
「計り知れないほど広く、美女の魅力にあふれた魔法の国を旅し、快楽の嵐が吹き荒れる中、最後の女性にキスし、死にたいと思う」(冒頭句より、拙訳)。
管弦楽打楽器の見せ場、魅せ場は尽きない。この交響詩(音詩)は、いわば歌のない小楽劇で、実際雄々しく突き進むドン・ファン、そして彼と関わる女性たちの「示導動機」も聴こえてくる。
芸術的な覇気に満ちあふれていたリヒャルト・シュトラウス、作曲時24歳。
リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)
歌劇「ばらの騎士」組曲 作品59
歌劇作曲 1909年~1910年
編 曲 1944年頃
歌劇初演 1911年1月ドレスデン、ドレスデン宮廷歌劇場 エルンスト・フォン・シューフ指揮
組曲初演 1944年10月ニューヨーク、カーネギーホール
アルトゥール・ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィルハーモニック
1911年1月、ゼンパーオーパー(ゴットフリート・ゼンパー設計のオペラハウス)の名で知られるドレスデン宮廷歌劇場で初演されたリヒャルト・シュトラウス5番目のオペラ「ばらの騎士」は、オペラ史上、空前絶後という言葉を使ってもいいほどの成功を収めた。
この新作オペラを観劇するために特別列車「ばらの騎士」号がベルリンから出発。ドレスデンとの間を何往復もしたという。ウィーン宮廷歌劇場でも同年だけで37回上演されるほどの人気を博す。
オペラの舞台は18世紀半ば。栄華を誇ったハプスブルク帝国の帝都ウィーン。
元帥夫人マルシャリン(マリー・テレーズ)の若い恋人!オクタヴィアン(愛称カンカン)は、女好きで粗野な性格のオックス男爵と可憐な令嬢ゾフィーの結納の儀で、婚約の印しとなる銀のばらを届ける「ばらの騎士」の使者を務めることになった。
オクタヴィアンは、その使者を務めた際、オックス男爵と婚約「させられた」ゾフィー嬢にひと目惚れする。ゾフィーも恋に落ちた。
オックス男爵はオクタヴィアンと「決闘」になり、腕にかすり傷を負っただけなのに大げさに騒ぐ。しかし小間使いのマリアンデル(実は女装したオクタヴィアン)が書いた「お逢いしたい」というラヴレターにご満悦。上機嫌でワルツを踊る。これがオペラ第2幕を彩る有名な「ばらの騎士」のワルツである。
しかし女に目がないオックス男爵の密会の目論見は、オクタヴィアンらの一計で霧散するのだった。
元帥夫人マルシャリンは、若い二人──オクタヴィアンとゾフィーに芽生えた愛を祝福し、自らのオクタヴィアンへの恋に終止符をうつ。時の移ろいへの憂い。得も言われぬ余韻を漂わせながら去ってゆくマルシャリン。
いわゆるウィンナ・ワルツがまだ存在しなかった18世紀半ば(1700年代半ば)をオペラの舞台とし、そこにヴィーナリッシュ(ウィーン風)のワルツを響かせたリヒャルト・シュトラウスと、ほんとうに「ばらの騎士」の儀式が存在したかのように、ウィーン語の語感を生かしながら台本を書いたフーゴ・フォン・ホーフマンスタールの才覚が光る。
作曲家と台本作家は、モーツァルトの「フィガロの結婚」から多くのヒントを得、貴族社会特有の情事と若者のひたむきな愛を、艶(なま)めかしく、かつ喜劇的に描いたのだった。
前述のように大ヒットしたオペラゆえ、オックス男爵が第2幕の幕切れで歌うワルツ調のアリア「私なしでは、毎日とても長い=私なしでは、昼をもてあましohne mich,ohne mich,jeder Tag dir so lang」のメロディを軸に、多くの編曲が創られた。リヒャルト・シュトラウス自身も2種類のワルツ・チェーン(メドレー)を創っているほか、ハンガリーの歴史的な指揮者フリッツ・ライナー編曲による8分半ほどの「ばらの騎士のワルツ」もある。
ウィーンで活躍したチェコのヴァイオリニスト、ヴァーシャ・プシホダ(1900~1960)による「ヴァイオリンとピアノのためのばらの騎士ワルツ」も素晴らしい。
さて、抜群の知名度と人気を誇るオーケストラ組曲だが、誰が編んだのか分かっていない。
1944年10月にニューヨークのカーネギーホールでこの組曲を指揮したアルトゥール・ロジンスキ(1892~1958)が、リヒャルト・シュトラウス作成のワルツ・チェーンをもとにロンドン滞在中に編曲した可能性は、さてあるのだろうか。
曲は大きく5つの部分から成る。ワルツを奏でるコンサートマスターのソロも私たちを喜ばせる。
第1幕「前奏曲」~第2幕「銀のばらの献呈」「オクタヴィアンとゾフィーの二重唱」「オクタヴィアンとゾフィーが捕まる場面」「オックス男爵のワルツ」~第3幕「元帥夫人マリシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーによる三重唱」「オクタヴィアンとゾフィーによる二重唱」「オックス男爵、退散時のワルツ」~編曲者による「27小節のコーダ(結尾部)、フィナーレ」。
この新作オペラを観劇するために特別列車「ばらの騎士」号がベルリンから出発。ドレスデンとの間を何往復もしたという。ウィーン宮廷歌劇場でも同年だけで37回上演されるほどの人気を博す。
オペラの舞台は18世紀半ば。栄華を誇ったハプスブルク帝国の帝都ウィーン。
元帥夫人マルシャリン(マリー・テレーズ)の若い恋人!オクタヴィアン(愛称カンカン)は、女好きで粗野な性格のオックス男爵と可憐な令嬢ゾフィーの結納の儀で、婚約の印しとなる銀のばらを届ける「ばらの騎士」の使者を務めることになった。
オクタヴィアンは、その使者を務めた際、オックス男爵と婚約「させられた」ゾフィー嬢にひと目惚れする。ゾフィーも恋に落ちた。
オックス男爵はオクタヴィアンと「決闘」になり、腕にかすり傷を負っただけなのに大げさに騒ぐ。しかし小間使いのマリアンデル(実は女装したオクタヴィアン)が書いた「お逢いしたい」というラヴレターにご満悦。上機嫌でワルツを踊る。これがオペラ第2幕を彩る有名な「ばらの騎士」のワルツである。
しかし女に目がないオックス男爵の密会の目論見は、オクタヴィアンらの一計で霧散するのだった。
元帥夫人マルシャリンは、若い二人──オクタヴィアンとゾフィーに芽生えた愛を祝福し、自らのオクタヴィアンへの恋に終止符をうつ。時の移ろいへの憂い。得も言われぬ余韻を漂わせながら去ってゆくマルシャリン。
いわゆるウィンナ・ワルツがまだ存在しなかった18世紀半ば(1700年代半ば)をオペラの舞台とし、そこにヴィーナリッシュ(ウィーン風)のワルツを響かせたリヒャルト・シュトラウスと、ほんとうに「ばらの騎士」の儀式が存在したかのように、ウィーン語の語感を生かしながら台本を書いたフーゴ・フォン・ホーフマンスタールの才覚が光る。
作曲家と台本作家は、モーツァルトの「フィガロの結婚」から多くのヒントを得、貴族社会特有の情事と若者のひたむきな愛を、艶(なま)めかしく、かつ喜劇的に描いたのだった。
前述のように大ヒットしたオペラゆえ、オックス男爵が第2幕の幕切れで歌うワルツ調のアリア「私なしでは、毎日とても長い=私なしでは、昼をもてあましohne mich,ohne mich,jeder Tag dir so lang」のメロディを軸に、多くの編曲が創られた。リヒャルト・シュトラウス自身も2種類のワルツ・チェーン(メドレー)を創っているほか、ハンガリーの歴史的な指揮者フリッツ・ライナー編曲による8分半ほどの「ばらの騎士のワルツ」もある。
ウィーンで活躍したチェコのヴァイオリニスト、ヴァーシャ・プシホダ(1900~1960)による「ヴァイオリンとピアノのためのばらの騎士ワルツ」も素晴らしい。
さて、抜群の知名度と人気を誇るオーケストラ組曲だが、誰が編んだのか分かっていない。
1944年10月にニューヨークのカーネギーホールでこの組曲を指揮したアルトゥール・ロジンスキ(1892~1958)が、リヒャルト・シュトラウス作成のワルツ・チェーンをもとにロンドン滞在中に編曲した可能性は、さてあるのだろうか。
曲は大きく5つの部分から成る。ワルツを奏でるコンサートマスターのソロも私たちを喜ばせる。
第1幕「前奏曲」~第2幕「銀のばらの献呈」「オクタヴィアンとゾフィーの二重唱」「オクタヴィアンとゾフィーが捕まる場面」「オックス男爵のワルツ」~第3幕「元帥夫人マリシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーによる三重唱」「オクタヴィアンとゾフィーによる二重唱」「オックス男爵、退散時のワルツ」~編曲者による「27小節のコーダ(結尾部)、フィナーレ」。


