第381回 定期演奏会 プログラムノート
奥田 佳道(音楽評論家)
ニコライ(1810~1849)
歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」より 序曲
作 曲 1847年
初 演 1847年4月:ウィーン(序曲)、1849年3月:ベルリン王立歌劇場(オペラ)
初 演 1847年4月:ウィーン(序曲)、1849年3月:ベルリン王立歌劇場(オペラ)
幻想的な弦の序奏に導かれ、歌心たっぷりの調べが広がる。曲はほどなくアレグロ・ヴィヴァーチェの主部へ。オーケストラが劇的に駆け出す。シェイクスピアの同名喜劇をもとにした愉しいオペラの展開を予告するかのように。
ウィーン、ベルリンで活躍したドイツの作曲家オットー・ニコライといえば、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の生みの親としても知られる。1842年3月下旬、ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団のメンバーが敬愛する音楽監督ニコライのもとに集い、王宮レドゥッテンザールで、ベートーヴェンの交響曲第7番をメインとしたコンサートを開く。
これがウィーン・フィルの始まりである。ニコライはその後ベルリンへ赴き、1849年春に王立歌劇場で歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」を発表する。しかし同歌劇場と宮廷礼拝堂の正式楽長就任を前に天に召されてしまう。39歳の誕生日目前という若さだった。
ウィーン、ベルリンで活躍したドイツの作曲家オットー・ニコライといえば、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の生みの親としても知られる。1842年3月下旬、ウィーン宮廷歌劇場管弦楽団のメンバーが敬愛する音楽監督ニコライのもとに集い、王宮レドゥッテンザールで、ベートーヴェンの交響曲第7番をメインとしたコンサートを開く。
これがウィーン・フィルの始まりである。ニコライはその後ベルリンへ赴き、1849年春に王立歌劇場で歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」を発表する。しかし同歌劇場と宮廷礼拝堂の正式楽長就任を前に天に召されてしまう。39歳の誕生日目前という若さだった。
モーツァルト(1756~1791)
ヴァイオリン協奏曲第4番 ニ長調 K.218 「軍隊」
作 曲 1775年10月:ザルツブルク
初 演 不明
初 演 不明
冒頭、付点音符や装飾音、休符を巧みに交えた行進曲風のフレーズが聴こえてくる。モーツァルトお気に入りのフレーズ、いわばお家芸だ。いっぽう、この作曲家の協奏曲や室内楽曲では、これもいつものことだが、オペラのアリアや重唱と相愛の調べも舞う。
1775年の初夏から暮にかけて、19歳のモーツァルトは故郷ザルツブルクで4曲のヴァイオリン協奏曲を創った。
近年演奏の機会が増えてきた第2番ニ長調、国際コンクールの予選や各種オーディションの華でもある第3番ト長調、20世紀の終わり頃まで冒頭のフレーズゆえに「軍隊風」と呼ばれた第4番ニ長調(今定期のコンチェルト)、それに第5番イ長調「トルコ風」の4曲で、いずれもヴァイオリンの開放弦に則した調性(ニ長調、ト長調、イ長調)で書かれている。
謎が謎呼ぶ協奏曲。創作の背景、初演については、例によってと言うべきだろうか、分かっていない。
自分で弾くためだろうか? 19歳年上の親友ミヒャエル・ハイドン(1737~1806 ヨーゼフ・ハイドンの弟)への贈り物だったかも知れない。
以前はザルツブルク宮廷楽団のイタリア人コンサートマスター、アントニオ・ブルネッティ(1744~1786)のために書かれたと解説されることが多かった。しかしブルネッティの着任は一連の協奏曲誕生後である。
協奏曲第3番、第4番、第5番の最後が「あっけなく終わる」ことから、息子モーツァルトの売り込みに余念がなかった(厳格な古典音楽主義者にしてステージパパだった)父レオポルトを困らせるために書いたのでは、との論考がある。
また、何かと折りあいの悪かったザルツブルクのコロレド大司教に対し、音楽で笑いながら皮肉を言っていたのでは、と見る向きもある。いずれも推論だが、案外悪くない見立てだ。
第1楽章 アレグロ
第2楽章 アンダンテ・カンタービレ
第3楽章 ロンド、アンダンテ・グラツィオーソ
1775年の初夏から暮にかけて、19歳のモーツァルトは故郷ザルツブルクで4曲のヴァイオリン協奏曲を創った。
近年演奏の機会が増えてきた第2番ニ長調、国際コンクールの予選や各種オーディションの華でもある第3番ト長調、20世紀の終わり頃まで冒頭のフレーズゆえに「軍隊風」と呼ばれた第4番ニ長調(今定期のコンチェルト)、それに第5番イ長調「トルコ風」の4曲で、いずれもヴァイオリンの開放弦に則した調性(ニ長調、ト長調、イ長調)で書かれている。
謎が謎呼ぶ協奏曲。創作の背景、初演については、例によってと言うべきだろうか、分かっていない。
自分で弾くためだろうか? 19歳年上の親友ミヒャエル・ハイドン(1737~1806 ヨーゼフ・ハイドンの弟)への贈り物だったかも知れない。
以前はザルツブルク宮廷楽団のイタリア人コンサートマスター、アントニオ・ブルネッティ(1744~1786)のために書かれたと解説されることが多かった。しかしブルネッティの着任は一連の協奏曲誕生後である。
協奏曲第3番、第4番、第5番の最後が「あっけなく終わる」ことから、息子モーツァルトの売り込みに余念がなかった(厳格な古典音楽主義者にしてステージパパだった)父レオポルトを困らせるために書いたのでは、との論考がある。
また、何かと折りあいの悪かったザルツブルクのコロレド大司教に対し、音楽で笑いながら皮肉を言っていたのでは、と見る向きもある。いずれも推論だが、案外悪くない見立てだ。
第1楽章 アレグロ
第2楽章 アンダンテ・カンタービレ
第3楽章 ロンド、アンダンテ・グラツィオーソ
武満徹(1930~1996)
弦楽のためのレクイエム
作 曲 1955年、1957年1月~5月
初 演 1957年6月20日:東京、日比谷公会堂での上田仁(まさし)指揮東京交響楽団第87回定期演奏会
初 演 1957年6月20日:東京、日比谷公会堂での上田仁(まさし)指揮東京交響楽団第87回定期演奏会
武満徹が26歳のときに紡いだ「名刺」曲を聴く。武満、来年はや没後30年を迎える。
武満とこの佳品をめぐる、ストラヴィンスキー(1882~1971)の言葉がしばしば話題となる。
1959年(昭和34年)4月から5月にかけて、ストラヴィンスキーは<大阪国際フェスティバル協会>の招きで来日。大阪と東京でNHK交響楽団の指揮台に立ち、バレエ組曲「火の鳥」などを披露した。その折、日本の若手作曲家の動向を知りたいと、弟子のロバート・クラフトとともに東京・内幸町のNHKを訪れる。
ストラヴィンスキーは、当時の現代音楽を紹介したラジオ番組の録音や楽譜に接するなかで、ともに1957年に初演された福島和夫(1930~2023)のアルト・フルートとピアノのための「エカーグラEKAGRA」と、「弦楽のためのレクイエム」に関心を抱く。
そして「弦楽のためのレクイエム」について「この音楽は実にきびしい(intense)。このようにきびしい音楽が、あのように小柄な男から生まれるとは」との名言をのこす。この言葉は、28歳の武満と巨匠ストラヴィンスキーの昼食会に同席した映画評論家で作曲にも通じたドナルド・リチー(1924~2013)によって記録された。
劇音楽のモティーフ(動機)を源泉とし、レント~モデレ(モデラート)~レントで構成されている。
武満曰く「レクイエムという題はメディテーションとしても良かったのです。瞑想という言葉が、神への排他的な専心を意味するように、一物に専心したい気持ちがこの題を選んだのです」
また演時のプログラムノートに「特定の人の死を悼んで書いたのではありません。しかし僕はこの曲を書きながら、しばしば(早世した)早坂文雄氏(1914~1955、仙台出身)を想い、その死を悼みました」と記している。後に早坂と自分へのレクイエムだったと語った。
実は武満徹、結核を患い、一時は死も意識していた。その頃の言い尽くせぬ心情がスコアの揺らぎや不確実性、論理を超えた自在さとなって表れたのではないか、と見る向きもある。曲は早坂文雄に献呈された。
※参考文献 小野光子著<武満徹ある作曲家の肖像>(音楽之友社)
武満とこの佳品をめぐる、ストラヴィンスキー(1882~1971)の言葉がしばしば話題となる。
1959年(昭和34年)4月から5月にかけて、ストラヴィンスキーは<大阪国際フェスティバル協会>の招きで来日。大阪と東京でNHK交響楽団の指揮台に立ち、バレエ組曲「火の鳥」などを披露した。その折、日本の若手作曲家の動向を知りたいと、弟子のロバート・クラフトとともに東京・内幸町のNHKを訪れる。
ストラヴィンスキーは、当時の現代音楽を紹介したラジオ番組の録音や楽譜に接するなかで、ともに1957年に初演された福島和夫(1930~2023)のアルト・フルートとピアノのための「エカーグラEKAGRA」と、「弦楽のためのレクイエム」に関心を抱く。
そして「弦楽のためのレクイエム」について「この音楽は実にきびしい(intense)。このようにきびしい音楽が、あのように小柄な男から生まれるとは」との名言をのこす。この言葉は、28歳の武満と巨匠ストラヴィンスキーの昼食会に同席した映画評論家で作曲にも通じたドナルド・リチー(1924~2013)によって記録された。
劇音楽のモティーフ(動機)を源泉とし、レント~モデレ(モデラート)~レントで構成されている。
武満曰く「レクイエムという題はメディテーションとしても良かったのです。瞑想という言葉が、神への排他的な専心を意味するように、一物に専心したい気持ちがこの題を選んだのです」
また演時のプログラムノートに「特定の人の死を悼んで書いたのではありません。しかし僕はこの曲を書きながら、しばしば(早世した)早坂文雄氏(1914~1955、仙台出身)を想い、その死を悼みました」と記している。後に早坂と自分へのレクイエムだったと語った。
実は武満徹、結核を患い、一時は死も意識していた。その頃の言い尽くせぬ心情がスコアの揺らぎや不確実性、論理を超えた自在さとなって表れたのではないか、と見る向きもある。曲は早坂文雄に献呈された。
※参考文献 小野光子著<武満徹ある作曲家の肖像>(音楽之友社)
芥川也寸志(1925~1989)
交響曲第1番 (PRIMA SINFONIA)
作 曲 1953年、1954年、1955年
初 演 1954年1月26日:東京、日比谷公会堂での第1回<3人の会>芥川也寸志指揮東京交響楽団
改作/現行版初演 1955年12月8日:東京、日比谷公会堂での上田仁指揮東京交響楽団第74回定期演奏会
初 演 1954年1月26日:東京、日比谷公会堂での第1回<3人の会>芥川也寸志指揮東京交響楽団
改作/現行版初演 1955年12月8日:東京、日比谷公会堂での上田仁指揮東京交響楽団第74回定期演奏会
壮大なドラマが始まる予感。冒頭のクラリネットから作曲家は魅せる。聖歌/讃美歌風の調べ(第3楽章)も、すべてを振り切って疾走するかのような楽の音(第2楽章、第4楽章)も素晴らしい。モダニズムここに極まる、と評すべき壮絶なグランドフィナーレまで聴きどころは尽きない。
編成は木管楽器各3(ピッコロ、オーボエ属のコーラングレ、バスクラリネット、コントラファゴット含む)、ホルン6、トランペット3、トロンボーン3、ハープ、それにたくさんの打楽器、弦楽5部と構えが大きい。
1983年から亡くなる1989年まで宮城フィルハーモニー管弦楽団(今の仙台フィル)の音楽総監督を務め、「真のローカリティこそが世界に通用する」との名言も遺した芥川は、後任の音楽監督外山雄三(1931~2023、在任:1989年度~2005年度)とともに、私たちのオーケストラを高みに導き、日本の音楽界に尽くした信念の人だった。
文豪芥川龍之介(1892~1927)の三男として生まれた芥川は、幼少の頃から当時はとても貴重だったレコード(回転数の速いSPレコード)で、ストラヴィンスキーの「火の鳥」や「ペトルーシュカ」など、ロシア・ソヴィエトの斬新な作品に親しみ、ヴァイオリンも習い始める。なお芥川は後にウィーンを経由してソヴィエト(1991年まで存在した社会主義共和国連邦)に入国。ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーと知遇を得ている。ソヴィエトでは楽譜も出版された。
東京音楽学校の予科作曲部、現在の東京藝術大学の作曲科で橋本國彦教授(1904~1949)に師事する。早くからウィーンに留学した橋本は、新しい音楽観の持ち主、粋な調べ、和声を紡ぐ作曲家だった。「都会派」の芥川に好ましい影響を与えたことだろう。
第2次大戦中、陸軍戸山学校軍楽隊に配属された芥川は、戦後東京音楽学校に復学し伊福部昭(1914~2006)に師事する。橋本國彦から洒脱な音楽を授かった芥川は、こんどは伊福部の熱きアレグロの音楽や民俗的な舞曲のスタイルに魅了される。
東京音楽学校研究科在学中の1948年に「交響三章 Trinita Sinfonica」を発表。1950年春、24歳の時にNHK(ラジオ)放送開始25周年を記念した管弦楽作品の懸賞に応募し「交響管弦楽のための音楽 Musica per Orchestra Sinfonica」で特賞に輝く。團伊玖磨(1924~2001)の「交響曲第1番イ調」と同時受賞だった。
1953年、橋本國彦門下でもあった同世代の芥川、團、黛敏郎(1929~1997)は自作自演を掲げた<3人の会>を結成。1954年1月に日比谷公会堂で旗上げ公演を行ない、1962年まで5回のコンサートを開催する。
その記念すべき第1回<3人の会>を彩った1曲が、当時は「交響曲、SINFONIA」(予告は交響的譚歌)と題されていた3楽章形式の交響曲である。現行版の第2楽章を欠くヴァージョンだった。
芥川は翌1955年6月に開催された第2回<3人の会>で「ディヴェルティメント」を披露。同曲の終章を改訂した上で「交響曲」に転用することを決め、さらに曲全体に手を施し、最終的に全4楽章の「交響曲第1番」を創り上げる。
今年1月、ZEN-ON MUSIC(株式会社全音楽譜出版社)から、信頼性の高い楽譜が刊行された。かねてからこの交響曲を愛してやまなかった外山雄三が、演奏上の疑問点やスコアの誤植を書きとめ、それを芥川也寸志夫人の芥川真澄に託した「外山メモ」から新たなドラマが始まる。
この貴重なメモをもとに、ジャンルをひらりと飛翔する作曲家、編曲家でピアニストでもある徳永洋明(芥川に憧れて作曲家になった才人)が、プロフェッショナルな視座と私淑する作曲家への想いをベースに、新たに校訂譜を作成したのだ。
特定のリズムを繰り返すオスティナート、拍の強弱をずらしたシンコペーション、狭い音域を小気味よく行き来するフレーズ、あるいは音階風の展開は、芥川が生涯にわたって愛した筆致。いわば「芥川節」で、均整のとれた構成の中、管弦打楽器のソロ、アンサンブルも明晰に響く加えて祈りの情趣、子守歌風の調べも客席の喜びとなる。
交響曲第1番の受容に関しては、同曲を作曲家自身、山田一雄、飯守泰次郎、湯浅卓雄と奏でたアマチュアの新交響楽団や、鈴木秀美と録音も行ったオーケストラ・ニッポニカが果たした役割も大きい。
第1楽章 アンダンテ(♩=63~66)
第2楽章 アレグロ(♩=120)
第3楽章 コラーレ、アダージョ(♪=100)
第4楽章 アレグロ・モルト(二分音符=84)
編成は木管楽器各3(ピッコロ、オーボエ属のコーラングレ、バスクラリネット、コントラファゴット含む)、ホルン6、トランペット3、トロンボーン3、ハープ、それにたくさんの打楽器、弦楽5部と構えが大きい。
1983年から亡くなる1989年まで宮城フィルハーモニー管弦楽団(今の仙台フィル)の音楽総監督を務め、「真のローカリティこそが世界に通用する」との名言も遺した芥川は、後任の音楽監督外山雄三(1931~2023、在任:1989年度~2005年度)とともに、私たちのオーケストラを高みに導き、日本の音楽界に尽くした信念の人だった。
文豪芥川龍之介(1892~1927)の三男として生まれた芥川は、幼少の頃から当時はとても貴重だったレコード(回転数の速いSPレコード)で、ストラヴィンスキーの「火の鳥」や「ペトルーシュカ」など、ロシア・ソヴィエトの斬新な作品に親しみ、ヴァイオリンも習い始める。なお芥川は後にウィーンを経由してソヴィエト(1991年まで存在した社会主義共和国連邦)に入国。ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーと知遇を得ている。ソヴィエトでは楽譜も出版された。
東京音楽学校の予科作曲部、現在の東京藝術大学の作曲科で橋本國彦教授(1904~1949)に師事する。早くからウィーンに留学した橋本は、新しい音楽観の持ち主、粋な調べ、和声を紡ぐ作曲家だった。「都会派」の芥川に好ましい影響を与えたことだろう。
第2次大戦中、陸軍戸山学校軍楽隊に配属された芥川は、戦後東京音楽学校に復学し伊福部昭(1914~2006)に師事する。橋本國彦から洒脱な音楽を授かった芥川は、こんどは伊福部の熱きアレグロの音楽や民俗的な舞曲のスタイルに魅了される。
東京音楽学校研究科在学中の1948年に「交響三章 Trinita Sinfonica」を発表。1950年春、24歳の時にNHK(ラジオ)放送開始25周年を記念した管弦楽作品の懸賞に応募し「交響管弦楽のための音楽 Musica per Orchestra Sinfonica」で特賞に輝く。團伊玖磨(1924~2001)の「交響曲第1番イ調」と同時受賞だった。
1953年、橋本國彦門下でもあった同世代の芥川、團、黛敏郎(1929~1997)は自作自演を掲げた<3人の会>を結成。1954年1月に日比谷公会堂で旗上げ公演を行ない、1962年まで5回のコンサートを開催する。
その記念すべき第1回<3人の会>を彩った1曲が、当時は「交響曲、SINFONIA」(予告は交響的譚歌)と題されていた3楽章形式の交響曲である。現行版の第2楽章を欠くヴァージョンだった。
芥川は翌1955年6月に開催された第2回<3人の会>で「ディヴェルティメント」を披露。同曲の終章を改訂した上で「交響曲」に転用することを決め、さらに曲全体に手を施し、最終的に全4楽章の「交響曲第1番」を創り上げる。
今年1月、ZEN-ON MUSIC(株式会社全音楽譜出版社)から、信頼性の高い楽譜が刊行された。かねてからこの交響曲を愛してやまなかった外山雄三が、演奏上の疑問点やスコアの誤植を書きとめ、それを芥川也寸志夫人の芥川真澄に託した「外山メモ」から新たなドラマが始まる。
この貴重なメモをもとに、ジャンルをひらりと飛翔する作曲家、編曲家でピアニストでもある徳永洋明(芥川に憧れて作曲家になった才人)が、プロフェッショナルな視座と私淑する作曲家への想いをベースに、新たに校訂譜を作成したのだ。
特定のリズムを繰り返すオスティナート、拍の強弱をずらしたシンコペーション、狭い音域を小気味よく行き来するフレーズ、あるいは音階風の展開は、芥川が生涯にわたって愛した筆致。いわば「芥川節」で、均整のとれた構成の中、管弦打楽器のソロ、アンサンブルも明晰に響く加えて祈りの情趣、子守歌風の調べも客席の喜びとなる。
交響曲第1番の受容に関しては、同曲を作曲家自身、山田一雄、飯守泰次郎、湯浅卓雄と奏でたアマチュアの新交響楽団や、鈴木秀美と録音も行ったオーケストラ・ニッポニカが果たした役割も大きい。
第1楽章 アンダンテ(♩=63~66)
第2楽章 アレグロ(♩=120)
第3楽章 コラーレ、アダージョ(♪=100)
第4楽章 アレグロ・モルト(二分音符=84)