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2019/01/11

第324回定期演奏会プログラムノート

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藤田 茂 (音楽学者)

 

「古典美」の夢 

 

今回のプログラムは、西洋芸術音楽が抱いた「古典美」の夢をわたしたちに見せてくれる。

絵画であれ、舞踊であれ、音楽であれ、西洋芸術は心の深いところでギリシアに憧れている。目を閉じて、あのアテネのパルテノン神殿を思い描いてみよう。アクロポリスの丘のうえに広がる紺碧の空、それを背に白く輝く石の建造物。その均整、その明晰、その調和。これこそが西洋芸術における「古典美」の原イメージである。

しかし、ドイツの哲学者ニーチェがいうように、この天国が顕現したかのような古典美の奥底には、実のところ、混沌の力がうごめいている。前者が太陽神アポロンになぞらえるならば、後者は酒神デュオニュソスになぞらえられる。両者はつねに闘争状態にあり、一方が迫り出してくれば他方が抑え、他方が安定してくればまた一方がそのバランスを突き崩す。

プロコフィエフ、ハイドン、ベートーヴェン。これら3人の音楽家もまた、このアポロンとデュオニュソスの闘争を自分のうちに強く自覚していたに違いない。本公演では、彼らの作品のうち、とくにアポロン的な古典美が強く出てくる作品が取り上げられるのだが、その古典美の奥底には、デュオニュソス的な何か、つまり、どうにも形容できない混沌とした力が感じとられるに違いない。これらの作品は古典美の夢を見ている。しかし、その古典美の夢は、いつ破られるとも知れぬ緊迫感のなかにある夢なのだ。

 

プロコフィエフ:古典交響曲 ニ長調 作品25

ロシアの革命期からソビエト連邦時代を生きたセルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)は、1917年に作曲した自分の交響曲第1番のコンセプトを『回想録』のなかで次のように振り返っている。「ハイドンが今を生きていたら、彼は自分の作曲スタイルを保持する一方で、現代のスタイルからも何かを取り入れただろうと思う。そのような交響曲を、このときわたしは作曲したいと思った。つまり、古典的な作法に従う交響曲である。それで、この曲が現在のような形をとりはじめたとき、わたしはこれを《古典交響曲》と名づけたのである」。

 

ここでプロコフィエフは、音楽における古典美のシンボルとしてハイドンの名をあげている。確かにハイドンこそは、一般的な理解における古典的交響曲、すなわち、ウィーン型交響曲の完成者であった。管楽器を2本セットにして、打楽器としてのティンパニ、弦楽5部と組み合わせる古典的2管編成、また、急・緩・舞曲・急の4楽章構成、これらはハイドンの時代にハイドンとともに標準化されたのだった。

 

なるほど、プロコフィエフはこの《古典交響曲》で、作曲の師であったチェレプニンを通して充分に吸収していたこのウィーン型交響曲の様式を再現してみせる。実際、《古典交響曲》は、編成も2管編成そのままなら、構成も急・緩・舞曲・急を守って、第1楽章はアレグロ、第2楽章はラルゲット、第3楽章はガヴォット、第4楽章(フィナーレ)はモルト・ヴィヴァーチェとなっている。

 

しかし、プロコフィエフほどの音楽家が、アポロン的な古典美の化身のように映るハイドンの交響曲のなかに、すでにデュオニュソスのエネルギーが潜んでいることに気づかなかったわけがない。プロコフィエフは、それを彼自身のやり方で引き延ばしてみせる。特に鮮烈なのは、トゥッティ(すなわちオーケストラの総奏)とともに行われる突然の転調だろう。このような驚きがあるからこそ、《古典交響曲》はハイドンの交響曲の模造品ではなく、プロコフィエフの言葉そのままに、ハイドンがこの時代に生きていればそう書いたであろうと思わせる、生き生きとした交響曲になりえている。

 

 

ハイドン:交響曲第90番 ハ長調 Hob. I,90

すでに述べたように、ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)は古典的交響曲、すなわち、ウィーン型交響曲の完成者であった。しかし、考えてみれば、これは奇跡的なことである。ハイドンは、彼の時代の多くの音楽家と同じく、人生のほとんどを宮廷音楽家、すなわちは「雇われ」として過ごしたのであり、その限りでは何らかの音楽的信念に形をあたえていく自由な芸術家ではありえなかったからである。実際、ハイドンの作品は彼の所有物ではなく、原則、ハイドンの奉職する宮廷の主のものとされていた。

 

それでも、ハイドンの作品はいわば「海賊版」となって、ハイドンの名前とともに勝手に流通しはじめる。これを知った当時の宮廷の主、エステルハージー侯は、1777年、ハイドンとの雇用契約を改め、以後、ハイドンの作品はハイドンに著作権ありと認めたのであった(!)。これをきっかけに、ハイドンは宮廷の外からの委嘱を公に受けられるようになり、(あらかじめ制限のある編成や、楽士どうしの人間関係など)宮廷楽団の論理にお伺いを立てることなく、音楽の古典美を本格的に追求できるようになったのである。ウィーン型交響曲の編成、また、その構成は、特定の宮廷に属する特定の楽団の論理に縛られることのない、まさしく「古典美の夢」の反映であった。

 

実際、ハイドンは、パリの管弦楽団から作品委嘱を受けて、1785年から1786年にかけて6曲の《パリ交響曲》(第82番から第87番)を作曲したし、さらに1791年から1795年の間に、現代風にいえば「コンポーザー・イン・レジデンス」として滞在したロンドンで12曲の《ロンドン交響曲》(第93番から第104番)を作曲した。両者の間に存在する第90番から第92番までの3つの交響曲は、特段名前がつけられてはいないが実は、これもパリの管弦楽団からの委嘱作だった。作曲は1788年。今回演奏されるのは、その第1曲である。

 

フルートは1本だし、クラリネットはまだ用いられていないし、と編成面でいくらかの「欠け」を指摘することは可能である。しかし、アダージョの序奏を経てアレグロ・アッサイに向かう第1楽章、アンダンテで歌う第2楽章、メヌエットを奏でる第3楽章、アレグロ・アッサイで駆け抜ける第4楽章(フィナーレ)、これらの音楽全体は堂々たる古典美を出現させる。そしてこの古典美は、この交響曲に埋め込まれたいくつかの驚愕の瞬間をスパイスとして、いっそう強く輝くのである。

 

 

ベートーヴェン:交響曲第4番 変ロ長調 作品60

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)は、《ロンドン交響曲》を作曲中のハイドンに直接、師事していたわけだから、ハイドンの完成させたウィーン型交響曲のこと、また、ここに投影されている古典美の夢のことを、誰よりもよく理解していたに違いない。一般にベートーヴェンといえば、ハイドンの交響曲に強く現れ出ているアポロン的な古典美に従うよりは、その奥に潜んでいるデュオニュソス的な混沌の力を無限に引き伸ばした作曲家と考えられている。かくして、ベートーヴェンは古典美を打ち破って、「ロマン主義」の言葉で称えられるパトスに満ちた新しい美の世界を開いた、というのである。

 

もちろん、それはその通りであり、ベートーヴェンの奇数番号の交響曲には、この説明がよく当てはまる。しかし、ベートーヴェンはまた、あくまでアポロン的な美を強調しながらも、彼の獲得した新しい技法を活用して、その裏にあるデュオニュソス的な力を同時に高めていくこともできた。このもうひとりのベートーヴェンを代表する作品こそ、今回のプログラムの最後を飾る交響曲第4番である。作曲は1806年。先に紹介したように、プロコフィエフは、20世紀の初頭にあって、ハイドンが今ならこう書くだろうと思われる交響曲を作曲した。ベートーヴェンは、ハイドンが生涯最後の時を過ごしている19世紀初頭にあって、同じことをしていたといえようか。シューマンもその意味でこの交響曲第4番を「二人の北国の巨人に挟まれたギリシアの可憐な乙女」にたとえたのだろう(ここでいう二人の北国の巨人とは、もちろん、交響曲第3番《英雄》と交響曲第5番《運命》のことである)。

 

第1楽章は、ハイドンの後期交響曲の様式を直接に彷彿させるアダージョの序奏つきのアレグロ・ヴィヴァーチェ。序奏からしてそうであるが、時折、姿を現わす陰りのある調べが、音楽全体の祝祭的な雰囲気をさらに強調する。第2楽章は、冒頭に聞こえてくるアダージョの優しい調べを何度も登場させつつ、これをいくつかの別の性格をもった旋律と対比させる。第3楽章は、急速なアレグロ・エ・モルト・ヴィヴァーチェの「メヌエット」部分と、それよりも速度を落としたウン・ポコ・メノ・アレグロの「トリオ」部分とが交替させる。第4楽章は、アレグロ・マ・ノン・トロッポで奏でられる16分音符の刻みにのって漸進してく。そして、前の楽章の要素を巧みに取り入れながら、壮大なフィナーレをつくりあげる。

 

交響曲第4番は、ベートーヴェンのまとったアポロンの仮面である。そして、その美しさの裏には、いつもデュオニュソス的な力が隠れている。

 

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