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2018/10/31

第323回定期演奏会プログラムノート

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藤田 茂 (音楽学者)

 

時代の転換点に生まれる音楽 

 

時代の転換点にあるとき人間はどのように行動すべきか。その正解がないことは、まさしくその当事者であるわたしたちが一番よく知っていることだ。だから少し立ち止まってゆっくりと考えるひとときをもとう。同じような時代の転換点にあった音楽家たちが、意識的であれ無意識的であれ、どのような判断をし、どのような選択をしたのかをその音楽を通して体で感じ取ってみよう。

ベートーヴェンは、自分の生きる世界が貴族社会から市民社会へと移り変わっていくなかで、また、音楽家の身分が宮廷楽士から芸術家へと移り変わっていくなかで、運命と呼ばれてきたものに自ら抵抗する新しい人間像を打ち立てた。そしてドヴォルザークは、民族自決の道がゆっくりと開かれていくなかで、また、国民性を求める運動がより成熟した段階に入り行くなかで、特定の郷土性の先にある新たな世界的アイデンティティを予感した。

いずれも現代のわたしたちがそのまま採用できるものではないかもしれない。けれども、彼らの音楽を通して、彼らとともに彼らの問題を共に生きる体験をすることで、何かが変わり始めるはずだ。

 

ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第3番 ハ短調 作品37

歴史の時代区分が結局は恣意的なものでしかないとしても、ひとつの世紀が終わり新しい世紀がはじまるその時には、やはり人間の精神に何らかの変容がもたらされるのではないだろうか。ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)の創造の軌跡を思う時、彼の時代が経験した18世紀から19世紀への転換が、この音楽家の精神に隠然たる影響を与えたと感じずにはいられない。この精神の変容を記念する作品のひとつが、今回、演奏されるピアノ協奏曲第3番なのである。

 

音楽活動の中心が宮廷演奏会から公開演奏会へと移行していく18世紀の後半、ピアノ協奏曲は花形のジャンルだった。ピアノ協奏曲とは、作曲家=ピアニストが、華やかな管弦楽を従えて高度な演奏技巧と作曲の天分を不特定多数の「聴衆」に向けて披瀝する舞台だったのだ。そこでは、この「聴衆」たちを飽きさせず、楽しませることが何よりも重要である。実際、ピアノ協奏曲第3番に先立つハ長調(第1番)と変ロ長調(第2番)のピアノ協奏曲においてベートーヴェンが目指していたのは、人々を楽しませる18世紀的な意味での音楽の華やぎなのであって、かつてモーツァルトが自分の協奏曲について述べた言葉が、これらの協奏曲にもそのまま通用する。つまり「難しすぎず、易しすぎず」、「あちこちに音楽通を満足させるパッセージがあるが、音楽に詳しくないひとでも、何かしら楽しくならずにはいられない」。

 

しかし、このピアノ協奏曲第3番はどうだろう。もちろん、ピアノ書法はあくまで華やかで、競争者から「悪魔的」と恐れられたベートーヴェンの即興演奏能力を存分に示すものではある(実際、初演のときにはベートーヴェンはかなりの部分を即興で弾いたそうである)。けれども、人々の喝采を狙った演奏効果以上にピアノ協奏曲第3番において存在感を示しているのは、大理石にノミを打ち込むかのような、あのベートーヴェン特有の造形意志。ここに研究者たちが「英雄様式」と呼ぶ、硬派なベートーヴェン像が確立する。このピアノ協奏曲第3番が最初に構想されたのは1796年頃、完成されたのは1803年。まさに19世紀の到来とともに、ベートーヴェンは古典的ジャンルに彼自身の強烈な個性を刻印しはじめ、最終的にはジャンルそれ自体を変容させてしまうことになる新たなる芸術的精神を押し出していったのだ。

 

全体の構成は急−緩−急の3楽章という、それ自体でみればごく古典的なものである。それ自体で完成した提示部をなすオーケストラの序奏にはじまる重厚な第1楽章(アレグロ・コン・ブリオ)から、ゆったりとした歌の第2楽章(ラルゴ)を経て、勢いのあるロンドの第3楽章(アレグロ)へ。しかし、その古典性に見られるのは、もはやギリシア的な晴朗の反映ではなく、人間として生きる悲劇への自覚である。わたしたちはこのピアノ協奏曲のなかにいくつもの「歪み」を見出す。そもそも第2楽章の調の選択からして変ではないか。両端楽章のハ短調に対するホ長調。これらは相互にかなり遠い調なのであって、中間楽章がいかにも浮き立って響くのもそのためである。このような調の選択にしても、またモチーフの扱いにしても、このピアノ協奏曲にはこちらの思い通りには流れてくれないところが数多くある。そしてこの音楽は、これらの「歪み」を隠すよりは際立たせ、それを乗り越えていくことを使命としているかのようなのだ。わたしたちはここに人間の似姿を見出す。交響曲に比肩する真剣な芸術としての協奏曲の始まりがここにある。

 

 

ドヴォルザーク 交響曲第9番 ホ短調 作品95「新世界より」

ベートーヴェンがピアノ協奏曲を着想してから約100年を経た1892年9月27日、アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904)はアメリカ東海岸の街、ニューヨークに到着した。故郷であるチェコのプラハを発ってから10日あまり、古きヨーロッパに生まれ育った作曲家が「新世界」にはじめて足を踏み入れた瞬間である。ドヴォルザークをニューヨークに招へいしたのは、当地にナショナル音楽院を開いたサーバー夫人というひと。すでにチェコの国民音楽の作曲家として世界的名声を博していたドヴォルザークが、今度はこの新しい音楽院の院長として、アメリカの国民音楽の興隆を指導してくれることを願ってのことである。

 

とりわけ19世紀半ば以降、それぞれの地域において言語あるいは生活様式を共有する人々が文化的アイデンティティの確立を求めて国民運動を起こした。国民音楽とは、音楽における国民運動の実践にほかならない。しかし、当初、政治的な支配国への抵抗という闘争的な意味を帯びていた国民運動は、それが一定の成功を収めたところで、かなり穏健なものへと姿を変えたことを思い起こしておこう。実際、ドヴォルザークの思い描いた国民音楽は、まさに戦う音楽家であったチェコの先輩スメタナとは異なり、「ふるさと」を感じさせる手触りを芸術音楽にもたらすべく民俗素材を活用するというものであった。ここでの民俗素材は、必ずしも出身地であるボヘミア由来のものに限られはしなかった。

 

「新世界より」というタイトルをもつ交響曲第9番でもそれは同じである。この交響曲はアメリカに暮らし始めたドヴォルザークの最初の作品であり、1893年1月から5月にかけて作曲された。ドヴォルザーク自身、「この交響曲はわたしがアメリカを見ることがなければ、このようには書かれなかった」といったことも事実ならば、また、この交響曲がアメリカの詩人ロングフェローによるインディアンをめぐる創作叙事詩『ハイワサの歌』からインスピレーションを得たことも事実である。そして、ドヴォルザークはこの交響曲のために「アメリカでモチーフを集め」、そのなかには「インディアンの歌」あるいは「黒人霊歌」も含まれていることも本当だろう。しかしドヴォルザークにとって(ボヘミアの民のものであろうとなかろうと)あらゆる民俗素材は、それがふるさとの手触りを与えてくれるものであるかぎり世界共有財産なのであり、すべてはドヴォルザーク個人のフィルターを通して彼の音楽に統合される。

 

第1楽章(アダージョからアレグロ・モルト)は、序奏つきのソナタ形式の枠組みに沿いながら、ごくシンプルな主題から音楽素材が紡ぎ出していく。ドヴォルザークがニューヨークで目の当たりにした新世界の巨大なエネルギーを感じさせる。第2楽章(ラルゴ)は、日本では「遠き山に日は落ちて」の歌詞でも親しまれている旋律を聞かせる。黒人霊歌にその起源をもとめる意見も多いが決して具体的な歌の引用ではなく、ドヴォルザーク特有の暖かさをもった創作旋律である。第3楽章(スケルツォ)は、アクセントの位置を変化させることで、いくつもの鋭いリズムを聞かせる。2つのトリオをもつ舞曲。第4楽章(アレグロ・コン・フォーコ)は、先行する3つの楽章が完全に出来上がってから最後に取り組まれた楽章であり、ここまでに聴かれる素材を随時、活用しながら圧倒的なフィナーレを形作る。

 

この交響曲第9番は、1893年12月16日、アントン・ザイドルの指揮によってニューヨークで世界初演を迎えたあと、1894年10月13日、今度はドヴォルザーク自身の指揮によってプラハでヨーロッパ初演が行われた。当時、ひとびとはドヴォルザークの交響曲第9番がアメリカ的なのかチェコ的であるのか議論したという。なんとも無益な議論ではないか。この音楽がかくも感動的であるのは、ここに特定の郷土性が感じられるからではなく、郷土性を土台にして、しかし、郷土性を乗り越えていく情熱が感じ取られるからではなかろうか。とするならばこの音楽は、わたしたちの時代よりもさらに先にある遥かなる未来を見つめているのである。

 

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