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2018/05/24

第319回定期演奏会<終了しました>【プログラムノート】

第319回定期演奏会 公演情報はこちら→

藤田 茂 (音楽学者)

 

仙台フィルの第319回定期演奏会は、ベートーヴェンの交響曲第2番と第3番とが演奏される。それぞれがひとつの演奏会のメインを務めうる密度の高い音楽である。ベートーヴェンも、自主企画の演奏会で自分の交響曲をひと晩のうちに複数、指揮することが少なからずあった。とすれば、仙台フィルも常任指揮者、飯守泰次郎のもと、ベートーヴェンと同じことを実践するのである。以下にベートーヴェンと交響曲の関係をひもといたあと、交響曲第2番と交響曲第3番を解説しつつ、これらを貫いて流れるひとつの力を取り出してみたい。

 

 

ベートーヴェンと交響曲

18世紀最後の年である1800年にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)が最初の交響曲を完成させたとき、彼は30歳になっていた。ベートーヴェンのあこがれであったモーツァルトが8歳にして最初の交響曲を書いたこと、ベートーヴェン自身がモーツァルトに比肩する神童であったことを思えば、いかにも遅い取り組みだ。しかし、ベートーヴェンの時代には、交響曲はもはやおいそれと手出しのできるジャンルではなくなっていた。作曲家の実力が公に測られる、恐るべきジャンルになっていたのである。

 

交響曲の原型ができあがるのは18世紀初頭のこと。イタリア語で「シンフォニア」と呼ばれたこの新生のジャンルは、同じ言葉がそれ以前にはオペラやオラトリオの序曲を意味したように、最初は演奏会の序曲のような位置づけだった。人びとの関心は、これにつづくオペラの抜粋や名技的な協奏曲のほうにあったという。交響曲がやがて演奏会のメインを務めようとは、このとき誰が想像しただろう。とすれば、誕生から100年を経ずして、交響曲は大出世を遂げるわけであるが、その最大の功労者はまちがいなくヨーゼフ・ハイドンであった。

 

ハイドンは自分の仕えるハンガリーの宮廷で交響曲の実験を繰り返す。何楽章で構成するべきか、どのような編成を取るべきか、その試行錯誤のなかからハイドンはいつしか「急・緩・舞・急の4楽章構成」、そして「弦楽合奏に、2本セットの木管・金管楽器群を加え、ティンパニを打楽器として用いる編成」を交響曲の規範として押し出す。そして、そうすること交響曲を演奏会のメインを占めうる高尚なジャンルへと高めていった。

 

他ならぬハイドンに師事したベートーヴェンにはハイドンの仕事の偉大さが誰よりもよく分かったに違いない。「ハイドンから学んだことは何もない」、たとえベートーヴェンがほんとうにそんなことを言ったとしても、これが事実だとはおよそ考えられない。彼が30歳まで交響曲を書かなかった、いや、書けなかったのは、おそらくハイドンの交響曲を意識してのことなのだ。ハイドンを越える。ベートーヴェンの当面の目標は定まった。

 

 

交響曲第2番 ニ長調 作品36

かくしてベートーヴェンはハイドンのプレッシャーに打ち勝って1800年にようやく最初の交響曲第1番を完成させる。その勢いに乗ってさらに2年後、1802年からベートーヴェンは次なる交響曲第2番に取り組むこととなった。楽章構成という面でも楽器編成という面でも、交響曲第2番には、まだまだハイドンの影が見え隠れしているかも知れない。第1楽章がアダージョの序奏から始まるところなど、いかにもハイドン流ではないか(ベートーヴェンがハイドンに実際に師事していたころ、ハイドンは現在、《ロンドン交響曲》として知られる12曲の交響曲群に取り組んでいた。1曲の例外を除き、これらはすべてアダージョの序奏にはじまる)。しかし、古い袋に新しい酒を注ぐかのごとく、最初のチャレンジであった交響曲第1番にもまして、ベートーヴェンはこの交響曲第2番ともにハイドン・モデルを内側から壊そうと試みている。

 

第1楽章(アダージョからアレグロ・コン・ブリオ)を見てみよう。なるほど序奏から入るのはハイドン流だが、ハイドンでは300小節規模であったこの冒頭楽章は、いまや360小節に拡大されている。第2楽章(ラルゲット)はどうか。ここでは、弦楽合奏の添え物であった木管楽器群がいっそうの力を得て鳴り響く。とくにハイドンのオーケストラではまだ新参者だったクラリネットが、弦楽合奏と肩をはる活躍をするところは注目に値する。そして第3楽章(スケルツォ)。ハイドンの交響曲では貴族的な佇まいをもった「メヌエット」が占めていたこの場所に、ベートーヴェンは躍動する舞曲を置く。そして、交響曲第1番ではまだ「メヌエット」と呼び続けていたこの音楽を、彼はいまや「スケルツォ」と呼び代える。最後の第4楽章(アレグロ・モルト)。軽やかに駆け抜けていくハイドン風の終楽章はもはやベートーヴェンの望むものではない。彼は、第1楽章に力のうえで均衡するようなダイナミックな終結をここに用意するのである。

 

最後に、交響曲第2番が主にウィーン郊外のハイリゲンシュタットで作曲されたということを指摘しておこう。静かな森の広がるこの町は、数年来、耳の病に苦しんできたベートーヴェンがその快復のために暮らした場所であり、また、ついにはそれが不治であること悟り弟たちに手紙を書いたとされる場所である。「わが死後、この意志の遂行されるべきために」。そう記された手紙は『ハイリゲンシュタットの遺書』と通称されるように、いかにも遺書のようだ。しかし、この決して投函されなかった手紙を書きながら、ベートーヴェンはほんとうに死を思っていたのだろうか、そして、彼の苦悩は同じ頃に作曲を進めていた交響曲第2番に投影されているのだろうか。実際のところは誰にも分からない。ただ交響曲第2番から感じ取られるのは、決然と自分の道を歩んでいこうとするベートーヴェンの意志である。そのあまりの力強さは、逆にハイリゲンシュタットの手紙を新生の決意として読ませさえするのである。

 

交響曲第2番の初演は1803年4月5日、ウィーン。ベートーヴェン自身の指揮による。

 

 

交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」

そしてベートーヴェンは交響曲第3番「英雄」で突き抜ける。前作からそれほどの時を経ずして1803年から1804年にかけて作曲されたこの交響曲に、師ハイドンの交響曲にはまだ生きていたギリシア由来の天上的な調和の理想はもうない。ベートーヴェンが、神を讃えるハイドンの《天地創造》に対抗するかのように、天界から火を奪った英雄を讃える《プロメテウスの創造物》をつくったことを思い起こそう。交響曲第3番「英雄」とともに、交響曲というジャンル自体が、神の世界を映し出す鏡から新しい世界を自ら実現せんとする人間の意志の表出へと姿を変える。

 

交響曲第3番「英雄」はまったく異例づくしの交響曲であった。第1楽章(アレグロ・コン・ブリオ)の規模はいまや691小節を数え、いくつもの主題的要素を複雑に絡み合わせることで圧倒的なエネルギーを生み出している。普通の意味での展開部だけでなく、曲を締めくくるコーダにおいても相当な展開が行われる。第2楽章(アダージョ・アッサイ)は、従来の長調の交響曲では異例の短調に転調し、軽やかな歌を聴かせるかわりに重々しい葬送行進曲を奏でる。第3楽章(スケルツォ)は、スケルツォ部分がこれまで以上の力で前進していくだけでなく、トリオ部分において2本(あるいは偶数本)セットで用いることが常識であったホルンを3本セットで用いる。そしてフィナーレの第4楽章(アレグロ・モルト)は、先にも触れた《プロメテウスの創造物》の主題にもとづく巨大な変奏曲で、それ以前の交響曲のあらゆるフィナーレ楽章を凌駕する壮大な響きの建築物を出現させる。

 

交響曲第3番「英雄」の成立にナポレオン・ボナパルトが関係しているというのは、なるほど興味深い話ではある。絶対君主の支配する古きヨーロッパを剣の力で打ち壊していくナポレオン。あとにシラーの言葉を借りて「すべての人々は兄弟となる」と歌うことになるベートーヴェンが、このフランスの軍人を1789年革命の体現者、すなわちは自由・平等・博愛の化身であると見たとしても不思議ではない。事実、ベートーヴェンは「この交響曲のほんとうのタイトルはボナパルトです」といい、交響曲第3番「英雄」がナポレオンに献呈されるはずであったことを明かしている。しかし、現実のナポレオンはこの交響曲が完成するのと時を同じくしてフランス皇帝に即位し、人民の新たな支配者となってしまう。「あの男も結局は平凡な人間にすぎなかった。自己の野心のために万人の人権を踏みにじった」。ベートーヴェンはそう激怒し、ナポレオンへの献呈を反故にしたという。実際、交響曲第3番の浄書譜(ベートーヴェンの書いた楽譜を他の人が清書したもの)を校閲したベートーヴェンが、表紙に記されていたナポレオンへの献辞を激しくかき消したことが今でも確認できる。

 

しかし、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」がこうしてナポレオン・ボナパルトという歴史上のひとりの人間から自由になることで、この音楽は人間への普遍的なメッセージとなることに成功したのではなかろうか。いまや「英雄」とは、「すべての人間が兄弟となる」世界をつくりあげる意志をもったあらゆるひとのことである。ベートーヴェンが師ハイドンのモデルから脱出して交響曲第3番とともに打ち出した新たな交響曲のあり方は、天上的な調和ではなく、このような人間世界の理想にこそ呼応している。

 

交響曲第3番「英雄」の私的な初演は、ベートーヴェンのパトロンのひとりであったロプコヴィッツ候の前で1804年中に行われたが、ヴィーンにおける公開初演となるのは1805年4月7日だった。

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