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2018/04/5

第318回定期演奏会プログラムノート

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藤田 茂

 

ロッシーニ、レスピーギ、ヴェルディ、ストラヴィンスキー − 4人の名前を聞いて、お互いのつながりをすぐにつかむことは難しい。けれども今回のプログラムは、彼の音楽をたしかに結んでいる秘密の糸を明らかにしてくれる。イタリアからフランスへ、フランスからロシアへ、はたまた、オペラから器楽へ、器楽からバレエへ。4人の音楽は、これらの間を波のように寄せては返し、こだまのように響き合う。続くが、その小さな手がかり。ホールに響く音楽は、この何百倍もの説得力をもってプログラムの意味を教えてくれるに違いない。

 

 

ロッシーニ:歌劇「ウィリアム・テル」序曲

本シーズンの定期演奏会は、《ウィリアム・テル》序曲で幕をあける。作曲者のジョアッキーノ・ロッシーニ(1792-1868)は、イタリア・オペラの名手であっただけでなく、フランス・オペラの世界的スターであった。ロッシーニの生まれはもちろんイタリアだったが、彼は、30代はじめにして当時、世界最大のオペラ消費地であったパリに招聘され、以降、フランス語台本にもとづくオペラ創作に専念したのである。

 

オペラ《ウィリアム・テル》は、その集大成。これが初演された1829年、ロッシーニはまだ37歳で、この後も40年近い人生を生きることになる。しかし彼はこれで自分のオペラを打ち止めとした。それだけに、スイスの英雄ウィリアム・テルが最愛の息子の頭に乗せたリンゴに矢を放つ伝説の場面のみならず、このオペラは心理描写の鋭さと情景描写の豊かさで際立つ。とくに序曲には、オペラ《ウィリアム・テル》のエッセンスが高度に濃縮されている。

 

この序曲の全体は4つの部分からなる。オーストリア支配下のスイスの夜明けを描く第1部、その厳しい運命を象徴する嵐を音にした第2部、しかし、穏やかな牧歌が響き希望を垣間見せる第3部、そして勝どきのラッパとともに祖国解放を歌いあげる第4部

 

ロッシーニがこの音楽を書き進めていたパリでは、まだ亡くなって数年のベートーヴェンの音楽が続々とフランス初演されているころだった。ロッシーニが受けた衝撃の大きさは、ほかのどの序曲とも違う《ウィリアム・テル》序曲の力強さを通して、わたしたちにまで伝わってくるだろう。

 

 

ロッシーニ/レスピーギ:バレエ組曲「風変わりな店」

《ウィリアム・テル》でオペラ作曲家の看板を降ろしたロッシーニは、以後、特別年金で暮らすマイ・ペースな人生を手にした。1848年、長く政治的動乱のつづくフランスを離れていったんはイタリアに戻ったが、1855年、再びパリに出て、ここを終の住処とした。

 

パリでの隠居生活のあいだにロッシーニは(主にピアノのための)小品を気ままに書いていった。彼の死後、これらは(「若気のいたり」をもじって)《老気のいたり》のタイトルで出版される。これに目を付けたのがオットリーノ・レスピーギ(1879-1936)である。彼は、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであったディアギレフ率いる「ロシア・バレエ団」のために、これらを編曲してバレエ音楽にする仕事を買って出る。こうしてバレエ《風変わりな店》が出来上がり、1919年、ロンドンで初演を迎えた。

 

用意されたバレエのあらすじはたわいもないもの。恋人どうしであった2つの自動人形が別々の客に買われてしまい、離れ離れになってしまったことから起こるドタバタ喜劇である。レスピーギは、ロッシーニの音楽を〈序曲〉、〈タランテラ〉、〈マズルカ〉、〈コサック・ダンス〉、〈ゆるやかなワルツ〉、〈ノクターン〉、〈ギャロップ〉のバレエ・ナンバーに仕立て、この物語の要求に応えた。

 

「オペラの国」のイメージを払拭し、イタリアに器楽ルネサンスを起こそうと考えていたレスピーギにしてみれば、「オペラ王ロッシーニ」のピアノ音楽を管弦楽化することは素晴らしい戦略に思えただろうし、すでにバレエ《プルチネッラ》でストラヴィンスキーとともに過去の音楽のリバイバルに成功していたディアギレフにとっても、この仕事は興味をそそったに違いない。レスピーギのオーケストレーションの手腕と構成のセンスがなしえた、編曲を超えた編曲作品である。

 

 

ヴェルディ:歌劇「マクベス」より<舞踊音楽>

19世紀前半にイタリア・オペラを牽引したのがロッシーニであったならば、19世紀後半に彼の後を継いで、イタリア芸術の国民的英雄となったのが、ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)であった。同じ年に生まれたドイツのワーグナーが自らの台本による神話世界のなかへと没入していったのに対して、ヴェルディは、台本作者との共同作業という伝統のうえにたって、心躍る華やかさを持ちながら、深い文学性を有したオペラを生み出していく。

 

《マクベス》は、シェイクスピアの同名の悲劇を原作とするオペラ。魔女の予言に翻弄され破滅していくスコットランドの武将、マクベス。この悲劇を「人間が作り出した最高傑作」と考えていたヴェルディは、これまでにない集中力でオペラ《マクベス》に取り組み、1847年、フィレンツェで初演を果たす。しかし、ヴェルディには改訂への情熱がくすぶり続け、同オペラがフランス語訳されて1865年、パリで上演されるのを機に、オリジナルのイタリア語版に大きく手を入れると同時に、第3幕のはじめに〈舞踊音楽〉を挿入したのである。

 

〈舞踊音楽〉の全体は3つの部分からなっている。マクベスに予言した魔女たちが大釜の周りを舞い踊り、死の女神たるへカティを呼び出す第1部、現れ出てきたヘカティーがマクベスの破滅を告げる第2部、へカティが去り、再び魔女たちが大釜の周囲を舞い踊る第3部

 

この舞曲の挿入は、ブルボン朝の時代からバレエをとりわけ好んできたフランス趣味に応えたものだが、深い劇的機能を有し、また、それ自体で独立した楽曲としても成立している。そこにヴェルディの音楽作劇術の真髄を見ることができる。

 

 

ストラヴィンスキー:幻想的スケルツォ

ロシアの興行士、セルゲイ・ディアギレフ率いる「ロシア・バレエ団」の誕生は、20世紀の初頭のエポック・メイキングな出来事であった。ロッシーニ/レスピーギの《風変わりな店》が、「ロシア・バレエ団」の演目であったことはすでに見たが、この伝説のバレエ団の活動によって、バレエがオペラと肩をならべる総合芸術とみなされるようになったのである。

 

ロシア・バレエ団の旗揚げ時には27歳、まだ駆け出しの作曲家であったイーゴル・ストラヴィンスキー(1882-1971)は、このバレエ団の座付き作曲家としてやがて世界的な名声を得ていく。そのきっかけをつくった音楽のひとつこそ《幻想的スケルツォ》であった。

 

この作品は1909年2月、指揮者ジロティの企画する現代音楽演奏会で、同時期に作曲された《花火》とともに初演され、いまロシア・バレエ団を旗揚げしようとしているディアギレフの興味を引いた。彼は無名の若者ストラヴィンスキーとすぐさま接触し、自分のバレエ団のための最初の演目のために、ショパンのピアノ曲をバレエ用に編曲する仕事を与えたのだった。

 

《幻想的スケルツォ》には「蜂」というタイトルも考えられていたように、(《熊蜂の飛行》で有名な)師、リムスキー=コルサコフの影響が、とくに管弦楽法において色濃く出ている作品である。しかし、一定のパルスを維持したまま、拍子を何度も「脱臼」させるその呼吸は、まさしくストラヴィンスキーのもの。次の《火の鳥》の一種の下書きのようにも聞こえてくるだろう。

 

 

ストラヴィンスキー:バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)

そして、ストラヴィンスキーもロシア・バレエ団も、バレエ《火の鳥》で大きな飛躍を遂げる。その音楽は、最初、もっと経験を積んだ作曲家に依頼されていた。しかし、その仕事の遅さに業を煮やしたディアギレフは、いまや若きストラヴィンスキーに賭けた。完全オリジナルで作られていく斬新な振付、大胆な舞台美術が、ストラヴィンスキーの新しい音楽と化学反応を起こし、バレエ《火の鳥》は、異国情緒を刺激する怪しい魅力で、見事パリの観客たちの度肝を抜いた。

 

バレエの大成功のあと、ストラヴィンスキーは、舞台と切り離してその音楽のエッセンスを効果的に伝えるべく、自ら演奏会用組曲を編む。これには1911年版、1919年版、1945年版の3つの組曲があるが、もっとも演奏機会の多いのが、今回の1919年版である。それはこの版が、オリジナルの大編成を受け継いだ1911年版よりも小さな編成で演奏可能であり、かつ、後に編まれた1945年版よりも、オリジナルの華麗さをよく保持するものだからだろう。

 

全体は7つの部分からなり、連続的にバレエの筋書きを追っていく。夜、幕が開くと(「導入」)、魔王カスチェイの森に火の鳥が現れ(「火の鳥とその踊り」)、王子イヴァンがこれを捕らえる(〈火の鳥のヴァリアシオン〉)。もしもの時は助けるとの約束を得て、火の鳥を放すと、イヴァンは乙女たちの優美な輪舞に出くわす(〈王女たちのロンド〉)。イヴァンは、そのなかの美しいひとりに恋し、惹かれるままに彼女の後を追い、魔王カスチェイに捕らえられる。そこに火の鳥が現れ、不思議な力で郎党たちを踊り狂わせる(〈カスチェイ王の地獄の踊り〉)。彼らが疲れて眠り込んでいる隙に(〈子守唄〉)、イヴァンはカスチェイの魂が入った卵を割る。世界は解放され、王子は乙女と結婚する(〈終曲〉)。

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